「武則天 -The Empress-|テレQ – TVQ九州放送」より引用
側室の子どもでありながら、唐の第2代皇帝・太宗に溺愛された李恪。
でも、太宗の崩御後、悲しい最期を迎えてしまいます。
李恪はどのような人物なのでしょうか。
李恪の生涯、父親と母親の正体を紹介します。
李恪ってどんな人?
李恪は619年生まれ。
太宗と側室・楊妃の間に、第3皇子として誕生しました。
また、第2皇子・李寛は幼くして亡くなっていました。
太宗が堅苦しいことを考えずに育てることができたのは、李恪が初めてだったかもしれません。
620年、わずか1歳で長沙王及び湘州(湖南省一帯)刺史となり、626年には漢王に封じられたうえで、梁州(陝西省漢中市)刺史となりました。
628年には蜀王となり、益州(陝西省漢中市)大都督、631年には秦州(甘粛省天水市)刺史、633年には斉州(山東省済南市)刺史に任命。
若くして数々の刺史を歴任していますが、任命当時の李恪の年齢から考えると、実際には李恪は赴任せず、肩書きを与えられただけかもしれません。
側室が産んだ子どもであっても、他の皇子と変わらず、太宗に可愛がられて育ちました。
636年、呉王に封じられ、638年に安州(湖北省孝感市)都督に任命された頃から、李恪の才能が宮中で知られるようになります。
李恪は文武両道で、皇帝の後継ぎにふさわしい資質をもっていました。
642年、李承乾くと第4皇子・李泰が皇太子争いをし、李承乾は皇太子を廃されました。
皇太子の座を空けておくわけにいかず、太宗は大臣と共に、誰が皇太子にふさわしいかを議論しました。
太宗は李恪の名前を挙げましたが、太宗の側近であり、妻・長孫皇后の兄でもあった長孫無忌が大反対。
実は、李恪の母・楊妃は、隋の第2代皇帝・煬帝の娘。
李恪が皇太子になったら、隋を復活させようと、唐に反乱を起こすかもしれません。
反乱を起こさなくても、太宗が崩御した後、隋を復活させるかもしれません。
長孫無忌の意見に納得した太宗は、「では、誰が皇太子にふさわしいと思うのか」と尋ねました。
長孫無忌の口から出たのは、第9皇子・李治(後の第3代皇帝・高宗)。
李治は628年生まれで、李恪より9歳も年下でした。
皇太子について議論していた当時、李治はわずか14歳。
14歳の李治に皇太子が務まるはずがないのに、何故、長孫無忌は李治を推薦したのでしょうか。
長孫皇后の血を引く皇子は、李承乾、李泰を除いて、李治しかいませんでした。
長孫無忌にとって、妹・長孫皇后の血を引いていることが何より大事だったんです。
長孫皇后の血を引いている皇子が皇太子に、皇帝になれば、長孫無忌は皇太子の伯父として、皇帝の伯父として、権力を手にすることができます。
こうして、李恪は皇太子候補から外れ、李治が皇太子になりました。
生母が違っても、李恪と李治は仲が良く、李恪に謀反を起こす考えはありませんでした。
でも、李恪を信じられなかった長孫無忌は、653年、高宗の妹・高陽公主と夫・房遺愛が企てたクーデターに、李恪を連座させました。
李恪は高陽公主と雑談をしただけなのに、長孫無忌によって嘘の密告をされてしまったんです。
高宗は李恪が謀反に加担していると信じられませんでしたが、高宗は内気な性格で、長孫無忌が朝廷を牛耳っているといっても過言ではありませんでした。
長孫無忌に従うしかなかった高宗は、李恪を処刑し、李恪の子どもを嶺南に流しました。
長孫無忌の死後、高宗は李恪を鬱林王に封じました。
高宗は李恪に申し訳ない気持ちを抱き続けていたのかもしれません。
705年、第4代皇帝・中宗は李恪に司空を追贈して、改めて葬りました。
李恪の父親と母親は誰?
紹介したように、李恪は太宗とその側室・楊妃の間に生まれました。
でも、本当の父親は太宗ではなく、太宗の弟・李元吉ではないかと勘違いされることが多いんです。
何故、李恪の父親は李元吉ではないかという話が浮上するのでしょうか。
その理由は2つあります。
一つ目の理由は、李元吉の妻が楊氏で、楊妃と姓が同じであるため、混同されやすいから。
二つ目の理由は、中国ドラマ「武則天-The Empress-」に登場する李恪の母親・楊淑妃が李元吉の元妻だから。
李元吉を太宗に殺されたため、ドラマ上では、楊淑妃は太宗に復讐するために側室になったという設定でした。
そのため、ドラマの設定を信じた視聴者には、李恪の父を李元吉と思っている方が多いんですね。
中国ドラマが大好きな私も勘違いしてしまいました。
実際には、李恪は太宗とその側室・楊妃の間に誕生した子どもです。
まとめ
李恪の生涯、父親と母親の正体を紹介しました。
文武両道で、李治を含む兄弟とも仲が良く、皇太子の資質を兼ね備えていた李恪。
でも、太宗は皇太子候補として李恪を挙げましたが、長孫無忌に疎まれて、全く関係のない謀反に連座させられ、悲しい最期を迎えました。
李恪が生きていたら、内気であまのじゃくな李治をしっかりサポートしてくれたかもしれませんね。
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