唐の第20代皇帝・懿宗の治世では、即位したその年から反乱が勃発しました。
懿宗はどのような人物なのでしょうか。
起きた反乱の一つである裘甫の乱とは、どのような反乱なのでしょうか。
懿宗の生涯、裘甫の乱を紹介します。
懿宗ってどんな人?
懿宗は833年生まれで、父・宣宗、母・晁美人の間に、第1皇子として誕生しました。
名前は李温といいます。
皇帝に即位する
846年、宣宗が即位すると、宣宗は第2皇子・李渼を皇太子にしました。
859年、宣宗が崩御しました。
皇太子・李渼は852年に既に亡くなっていたため、宦官・王宗実は李温を皇太子に擁立しました。
その後、李温は唐の第20代皇帝・懿宗として即位しました。
宴会に明け暮れる
懿宗は毎日小さな宴会を開き、3日に一度、大規模な宴会を開いて、政務を行いませんでした。
また、宴会の時以外は、宮中に滞在することを嫌がり、長安郊外にある別邸に滞在しました。
懿宗が別邸を訪れる時間は決まっていませんが、懿宗がいつでも寝泊まりできるように、別邸で働く者は頻繁に掃除し、食事を準備して、懿宗を待たなければいけませんでした。
反乱が次々と勃発する
朝廷を宦官に一任し、宴会したり、別邸でリラックスしたりする懿宗に、民の不満が爆発、
即位してすぐに、国賊・裘甫の乱や桂州守備兵の糧料判官・龐勛(ほうくん)の乱が勃発しました。
21人の宰相を任命する
宣宗の下で改革を進めた宰相・令独綯(れいことう)は解任され、河中節度使に任命されて、朝廷から遠ざけられました。
令独綯の代わりに、荊南節度使・白敏中(はくびんちゅう)を宰相に任命しました。
ところが、宰相に任命されてすぐに、白敏中は転倒し、腰を痛めてしまいました。
一人で歩くことができず、迷惑をかけると思った白敏中は辞職しました。
懿宗は自分が政治に疎いという自覚があったため、21人もの宰相を任命しました。
でも、宰相の間で賄賂が横行し、朝廷は危機に陥りました。
41歳で崩御する
武宗が会昌の廃仏を行ったことにより、唐では仏教が衰退していましたが、懿宗は仏教を保護しようと、寺の修復に努め、また、莫大なお布施を納めました。
信仰は個人の自由ですが、国庫を使うなんて…
873年、懿宗は病を患い、41歳で崩御しました。
裘甫の乱とは?
紹介したように、懿宗が即位してすぐに、裘甫の乱や龐勛(ほうくん)の乱が起きました。
裘甫の乱と龐勛の乱、どちらが興味深いかというと、裘甫の乱です。
個人の感想です。
こちらでは、裘甫の乱を取り上げます。
裘甫が反乱を起こす
裘甫の乱とは、859年12月から860年7月にかけて、浙東の国賊・裘甫が起こした反乱を指します。
懿宗が859年9月に即位して、わずか3ヶ月後の12月、浙東の国賊・裘甫は象山(浙江省寧波市)を攻撃し、陥落しました。
裘甫は剡県(せんけん。浙江省紹興市)に軍を進めました。
反乱軍が剡県を陥落する
地方行政の監察官である観察使・鄭祗徳(ていぎとく)は、討撃副使・劉勍(りゅうけい)、副将・范居植(はんきょしょく)に、300人の兵を率いて、討伐に向かうように命令しました。
860年に入り、唐軍は台州(浙江省台州市)で裘甫軍と戦いましたが、范居植は戦死し、劉勍は逃走してしまいました。
唐が剡県に保管していた物資を民に分け与えました。
裘甫を慕った民は、裘甫と共に唐軍と戦うと決めました。
反乱軍が唐軍を壊滅させる
裘甫軍は止まるところを知らず、越州(浙江省紹興市)は大混乱に陥りました。
というのも、越州では長期にわたって平和が続いていたため、武器を使用することがなく、手入れを怠っていました。
また、兵を動員することもなかったので、戦闘の訓練も行っていませんでした。
おまけに、兵を増員することもなく、兵の数は300人にも届きませんでした。
武器を使えない、兵力が足りないからといって、裘甫軍を野放しにするわけにはいきません。
敗戦した鄭祗徳は、兵を新たに募集しました。
でも、鄭祗徳の下に集まったのは、生活が困窮した民ばかり。
士気は当然低く、勝ち目はないと思いながらも、鄭祗徳は正将・沈君縦、副将・張公署、望海鎮将・李珪に、500人の兵を率いて、討伐に向かうように命令しました。
唐軍と裘甫軍は剡県西部で戦いましたが、結果は裘甫軍の勝利。
唐軍は壊滅状態に陥り、逃げ切ることができた兵はわずかでした。
裘甫は唐軍と戦う前、剡県西部を流れる川をせき止め、その上に橋をつくりました。
いざ、唐軍と戦った裘甫軍は、すぐに負けたふりをして逃げ、細工をした川に向かいました。
裘甫軍が橋を渡ったところ、追ってきた唐軍も、続いて橋を渡りました。
裘甫軍が橋を渡り切ると、橋を落とし、唐軍のほとんどが川に流されてしまいました。
勝利を重ねてきた裘甫軍の兵は、3万人を超えました。
3万人の兵を32部隊に分けました。
32部隊の隊長の中には、計略に優れた劉暀、武芸に秀でた劉慶、劉従簡がいました。
唐軍・鄭祗徳が解任される
裘甫は天下都知兵馬使と自ら称して、年号を羅平としました。
集めた物資を使って、職人を雇い、武器を製造させました。
一方、敗戦が続いている鄭祗徳は、懿宗に上奏して、兵を送るように要求しました。
ところが、送られてきた兵はたった700人。
3万人にも及ぶ裘甫軍に、700人では太刀打ちできません。
鄭祗徳は国が定めた基準の13倍もの給与を支払うことにし、兵を募集しましたが、それでも兵は集まりませんでした。
また、なんとか集めた兵は、仮病を使ったり、わざと馬から落ちて怪我をしたりして、戦地に向かいませんでした。
こうして、裘甫軍と戦う兵は集まらず、裘甫軍を野放しにすることになってしまいました。
王式が唐軍の隊長に選ばれる
朝廷では、鄭祗徳に代わる人選を行っていました。
すると、宰相・夏侯孜は安南都護を務めていた王式を推薦しました。
実績のある王式を観察使に任命し、懿宗は王式を都に呼び出しました。
懿宗が王式に戦略を尋ねると、「兵さえ手に入れば、反乱を鎮圧できます」と答えました。
唐は長引く混乱により、国庫が尽きようとしていました。
兵を募集するのに費用がかかると言って、官吏は反対しました。
でも、王式は「反乱が長引くほうが、費用がかかるうえに、税を徴収できません」と言って、懿宗を納得させました。
懿宗は唐各地から兵を集めて、王式に託しました。
反乱軍に陰りが見え始める
裘甫軍は衢州(浙江省衢州市)や婺州(浙江省金華市)を攻めましたが、陥落できませんでした。
諦めた裘甫軍は明州を攻めましたが、明州も陥落できませんでした。
裘甫軍が勢いのある反乱軍だという噂は、全土に広まっていて、民はお金を出し合って兵を集め、守備を固めていたんです。
裘甫は進路を変更して、唐興県(浙江省台州市)や上虞県(浙江省紹興市)を攻め、町を焼き払い、余姚県(浙江省余姚市)を攻めて、地方官を殺しました。
その後、寧海県(浙江省寧波市)へ進み、県令を殺して占拠しました。
王式が裏切り者を捕らえる
一方、戦闘準備を整えた唐軍は、裘甫軍の占拠地に向かって進軍。
裘甫は王式を恐れ、今後、兵をどのように進めるべきか、方針を決めかねてしまいました。
唐軍が裘甫軍に近付くと、王式に降伏する者が続出。
王式は裘甫軍から降伏した兵を配下にし、降伏しない兵は謀反人として処刑しました。
王式はいいスタートを切りましたが、唐軍の動きを知っているかのように、裘甫軍が動きます。
唐軍の動きが裘甫軍に筒抜けなのではないかと思った王式は調査しました。
すると、唐軍の中に裏切り者がいて、唐軍の動きを裘甫に知らせていることが判明。
王式は裏切り者を処刑し、裘甫は唐軍の動きを掴めなくなってしまいました。
王式が反撃を開始する
裘甫軍から兵が降伏し、兵が4000人を超えた王式は、東路軍、南路軍の2つに兵を分けました。
① 軍の内部で争わないこと
② 民家を焼き払わないこと
③ 反乱軍に強制されて戦っている兵を含めて、民を殺さないこと
を約束させ、進軍させました。
唐軍の南路軍は裘甫軍と約20戦を交え、全て勝利を収めました。
反乱軍を追い詰める
敗北した裘甫軍が海を渡って逃げると予想した王式は、海岸に向かいました。
案の定、裘甫軍は海岸に船を停泊していました。
王式は軍を配備し、逃亡してきた裘甫軍を待ち受け、裘甫軍の船を焼き払いました。
続いて、唐軍の東路軍が裘甫軍を破りました、
裘甫が降伏する
裘甫軍は命からがら逃げ、裘甫は剡県に戻りました。
裘甫は剡県の守備を固め、籠城戦に持ち込みました。
王式は剡県を流れる川をせき止め、飲み水を断ち切りました。
飲み水がなければ、生き延びることはできません。
裘甫は100人を超える兵と共に、王式に降伏しました。
反乱の首謀者・裘甫が降伏しても、剡県に立てこもる反乱軍が500人いました。
王式はできるだけ多くの兵を集め、剡県を一斉に攻撃し陥落し、裘甫の反乱はようやく鎮圧しました。
まとめ
懿宗の生涯、裘甫の乱を紹介しました。
小太宗と呼ばれる宣宗の後を継いで即位した懿宗。
他の皇帝に同じく、懿宗は宦官に朝廷を一任し、宴会に明け暮れました。
ただ、他の皇帝の治世と異なるのは、懿宗が即位したその年から、反乱が勃発したこと。
唐軍は反乱を鎮圧するのに手間取り、反乱が次々と勃発するのを許してしまいました。
皇帝が国の統制をいかにとれていなかったかが、よく分かりますね。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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