隋の初代皇帝・文帝(楊堅)の第2皇子・楊広(後の煬帝)は、南朝・陳の討伐を任されました。
当時、敗北した国の后妃は、勝利した国で男性陣に分け与えられるのが世の常。
陳を滅ぼした暁には、陳の第5代皇帝・後主(陳叔宝)の側室・張貴妃を手に入れられると、楊広はワクワクしていました。
張貴妃とは、どのような人物なのでしょうか。
煬帝が側室に迎えたかった張貴妃の生涯を紹介します。
10歳で陳の後宮に入る
張貴妃は559年生まれで、名前を張麗華といいます。
張麗華はもともと兵家の出身でしたが、生まれた時には、家庭は困窮していて、父と兄は筵(むしろ)織りの仕事をしていました。
そんな貧しい家を救ったのが、張麗華の美貌。
張麗華は顔が整っているうえに、綺麗な髪の持ち主でした。
髪の長さは身長と同じぐらいで、全く傷んでいないツヤツヤの髪でした。
張麗華の美貌の噂が都まで届き、568年、張麗華はわずか10歳で後宮に入ることになりました。
生活が困窮していた張麗華が後宮に迎えられたことからも、張麗華がいかに美人だったかが分かりますね。
皇太子・陳叔宝の寵愛を受ける
でも、後宮に入っただけでは、皇帝や皇太子から寵愛をすぐに受けられません。
皇帝や皇太子から寵愛を受けるためには、まず、目に留まらなければならず、女性陣はこぞって着飾りました。
宣帝の第1皇子である皇太子・陳叔宝の目に留まろうと、女性陣は試行錯誤を繰り返していましたが、張麗華はあっという間に、陳叔宝の目に留まりました。
張麗華と陳叔宝が会う機会を作ったのは、陳叔宝の側室・龔良娣。
張麗華は龔良娣の下で給仕を務めていて、陳叔宝が龔良娣を呼び出した時に、張麗華は龔良娣に付き添って、陳叔宝を訪れました。
すると、陳叔宝は龔良娣ではなく、傍にいた張麗華の美貌に目を奪われたんです。
張麗華は陳叔宝の寵愛を受け、575年、陳叔宝にとって第4皇子となる陳深を出産しました。
その後、張麗華は陳叔宝にとって第8皇子・陳庄を出産しました。
貴妃に冊立される
582年、陳の第4代皇帝・宣帝が崩御しました。
すると、帝位を狙った宣帝の第2皇子・陳叔陵は陳叔宝の暗殺を謀りました。
陳叔宝は母・柳皇后と乳母・呉氏に助けられ、一命を取りとめましたが、絶対安静を命じられました。
側室はもちろん、妻・沈氏でさえも、陳叔宝から看病に呼び出されませんでしたが、張麗華だけは特別。
張麗華はたった一人で陳叔宝の看病をこなしました。
回復した陳叔宝は第5代皇帝・後主として即位し、張麗華を貴妃に冊立しました。
後主の張貴妃への寵愛は増すばかり。
後主は宮中に二階建ての離れをいくつか建築し、離れに一人ずつ、お気に入りの側室を住まわせました。
もちろん、側室の中でも、陳叔宝の一番のお気に入りは張貴妃。
後主の寝室と張貴妃の離れを廊下で繋ぎ、天候を気にせずに、いつでも行き来できるようにしました。
一方、張貴妃は後主の側室に嫉妬せず、むしろ、後主が開く宴会に側室を招いて、後主と側室の繋ぎ役を買って出ました。
そのため、張貴妃は後主からだけでなく、側室からも人気がありました。
朝廷に関与する
張貴妃から片時も離れたくなかった後主は、朝廷にも張貴妃を連れて出席するようになりました。
また、臣下の上奏を一緒に聞いては、内容をしっかり記憶し、後主や臣下が内容を忘れていると、指摘して思い起こさせました。
後主にとって、張貴妃は側室であり、朝廷を支えてくれるパートナーでもありましたが、張貴妃は臣下の進退にまで口を出すようになりました。
子ども・陳深が皇太子になる
588年、後主は側室・孫姫との間に誕生した第1皇子・陳胤を皇太子の座から降ろし、陳深を皇太子にしました。
孫姫は陳胤を出産してすぐに亡くなってしまったため、陳胤は後主の正妻・沈皇后に育てられました。
後主と沈皇后の間には子どもが生まれなかったため、582年、陳胤が皇太子になっていたんです。
でも、張貴妃を寵愛するあまり、後主は沈皇后を邪魔に感じるようになりました。
そこで、陳胤を廃して、陳深を皇太子にすることで、沈皇后を遠ざけようと考えたんです。
皇太子の母となった張貴妃は、後宮で確固たる地位を築きました。
30歳で亡くなる
後主が張貴妃に溺れている間に、北朝・隋は陳を討伐する準備を進めていました。
589年、陳の討伐を命じられた楊広(隋の文帝の第2皇子)は陳を攻めました。
隋から攻撃を受けると思っていなかった後主は、張貴妃を連れて、慌てて井戸の中に隠れました。
隋の将軍・韓擒虎が後主を見つけ、井戸から出るように言いましたが、井戸の底に入った後主は自分では出ることができません。
韓擒虎が井戸に綱を下ろして、後主を引き上げたところ、後主と張貴妃が綱に捕まっていました。
後主を拘束した隋軍は、陳を滅ぼしたも同然。
張貴妃が美女だと知っていた楊広は、張貴妃を側室に迎えようと、行方を探しましたが、張貴妃が見当たりません。
実は、隋の参謀・高熲が張貴妃を早々に斬ってしまったんです。
陳が滅亡した理由には、後主の性格が大きく関係していたのではないかと思いますが、高熲は張貴妃が傾国の美女だったからではないかと考えました。
もし、張貴妃が隋の皇室に嫁げば、隋を滅ぼしかねません。
また、楊広が張貴妃を気に入っていることを、高熲は既に把握していました。
そのため、張貴妃が楊広に渡る前に、高熲は張貴妃を葬ることにしたんです。
10歳で宮廷に入った張貴妃は、589年、30歳の若さで亡くなりました。
まとめ
煬帝が側室に迎えたかった張貴妃の生涯を紹介しました。
貧しい家に生まれながらも、自らの美貌と記憶力で、陳の後主を虜にした張貴妃。
傾国の美女として、張貴妃は殺されてしまいましたが、もし、張貴妃が隋に渡っていたら、隋はどうなっていたのでしょうか。
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