【北魏】司徒を追贈された崔宏と国史の獄で処刑された崔浩

北魏には、3人の皇帝に仕えた崔宏、崔浩親子がいました。

すけさん
すけさん

訓読みすると、全く同じ読みですが、中国語では読みが当然異なります。

崔宏は死後に司徒を追贈されるほど功績を認められましたが、崔浩は国史の獄で処刑されて生涯を終えました。

崔宏と崔浩の生涯を紹介します。

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司徒を追贈された崔宏

崔宏は清河郡(河北省衡水市)出身で、前燕で黄門侍郎を務めた崔潜の子どもです。

372年、前秦の第3代皇帝・宣昭帝(苻堅)の弟・苻融が冀州(河北省邯鄲市)牧となると、崔宏は苻融のもとで、冀州従事と征東記室を兼任しました。

父・崔潜から草書、隷書、行書、押書の4つの書を学んでいた崔宏は仕事をスムーズにこなしました。

崔宏が優秀な人材だと耳にした宣昭帝は崔浩を都に呼び、太子舎人に任命しました。

おゆう
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でも、崔宏は母の病気を理由に辞退してしまいました。

宣昭帝の機嫌を損ねた崔宏は著作佐郎に降格されました。

380年、苻丕(後の前秦の第4代皇帝・哀平帝)が苻融に代わって冀州牧となると、崔宏は征東功曹に任命され、苻丕に仕えることとなりました。

坊っちゃん
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385年8月、宣昭帝が後秦に捕らえられ殺されると、崔宏は山東に逃亡。

後燕の初代皇帝・成武帝(慕容垂)に助けられ、吏部郎、尚書左丞、高陽国内史に任命されました。

坊っちゃん
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396年、北魏の初代皇帝・道武帝(拓跋珪)が後燕の第2代皇帝・恵愍帝(慕容宝)を討つと、崔宏は任務を放棄して逃亡。

 

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

逃亡してばかりですね。

崔宏が優秀な人材であることは北魏にも伝わっていたため、道武帝は崔宏を捕らえて護送しました。

崔宏を気に入った道武帝は、崔宏を黄門侍郎に任命。
崔宏を中心に、北魏の法制度が整備されました。

道武帝が国号を魏と定めたのも、崔宏が国号を魏と定めてはどうかと提案し、道武帝が崔宏の意見に賛同したからだといわれています。

崔宏は吏部尚書に任命され、北魏の人事に携わりました。

おゆう
おゆう

409年、道武帝の第2皇子・拓跋紹が道武帝を暗殺。

官吏の心を掴もうと、拓跋紹は金品を官吏に贈りましたが、官吏が金品をどんどん受け取る中、崔宏だけは金品を受け取りませんでした。

拓跋紹を殺して、第2代皇帝・明元帝(拓跋嗣)が即位すると、都はもちろん、地方で汚職を行う官吏を摘発し、崔宏は明元帝から強く信頼されるようになりました。

やがて朝廷を取りしきるまで、崔宏の権力は拡大しましたが、崔宏が権力を振りかざすことはなく、418年に病で亡くなりました。
崔宏の功績を称えて、司空を追贈されました。

国史の獄で処刑された崔浩

崔浩は381年生まれで、崔宏の長男として誕生しました。

409年、崔宏が明元帝に重用されると、崔浩は博士祭酒となって、経学を講義したり、天人相関説を用いて予言したりして、崔宏同様に明元帝から信頼されるようになりました。

第3代皇帝・太武帝(拓跋燾)のもとで司徒となり、華北統一の戦略を立てたり、五経に解釈を付けたりと、軍事面、文化面で幅広く活躍しました。

おゆう
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ところが、太武帝から国史編纂を命じられたことで、崔浩の人生は一変。

拓跋部の出身部族である鮮卑族の風習を包み隠さずありのまま記述したところ、崔浩が拓跋部を侮辱したと感じた太武帝は怒り、崔浩をはじめ、崔氏一族や親戚など関わりのある者を処刑しました。

まとめ

崔宏と崔浩の生涯を紹介しました。

崔宏と崔浩どちらも、北魏の第2代皇帝・明元帝から強く信頼され、朝廷で大活躍しましたが、崔浩の編纂した国史の内容が太武帝の怒りを買い、崔浩はもちろん、崔氏一族や親戚は処刑されてしまいました。

崔浩が正直に行動したことによって、崔氏一族や親戚が処刑されるなんて、崔宏は想像もしなかったのではないでしょうか。

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