楠木正成の出自についてはさまざまな説がありますが、何が楠木正成と後醍醐天皇を結び付けたのでしょうか。
楠木正成と後醍醐天皇の出会い、忠誠の言葉と菊水紋の由来を紹介します。
楠木正成と後醍醐天皇の出会いは夢のお告げ!
元徳3年(1331年)4月、後醍醐天皇の倒幕計画が漏れ、鎌倉幕府は後醍醐天皇の追討に乗り出します。
後醍醐天皇は御所を脱出し、笠置山に移りました。
戦況の苦しい中、後醍醐天皇は次のような夢をみます。
美少年が南向きに枝の伸びた木の下にある玉座に案内してくれた。
目覚めた後醍醐天皇は夢を思い返し、
① 笠置山の南にいる
② 楠氏(「木」と「南」の組み合わせ)
を探し出します。
楠氏こそ、窮地に立たされた自分を救ってくれる人物だと思ったんです。
後醍醐天皇は万里小路藤房と笠置寺の僧・成就坊律師に早速相談。
すると、上の2つの条件に当てはまる人物は楠木正成ただ一人でした。
楠木正成の身辺を調査すると、楠木正成が畿内に大きなネットワークをもっていることが判りました。
楠木正成を味方にしたら、楠木正成を通じて兵や武器がたくさん集まるかもしれません。
楠木正成の忠誠の言葉
後醍醐天皇に会った楠木正成は、後醍醐天皇の目指す理想の世に共感して忠誠を誓います。
② 天下統一には武力と計略の二つが必要です。
武力だけでは幕府に勝てません。
でも、計略をもって挑めば恐れることはありません。
③ 戦の勝敗は時の運。
一回一回の戦の結果にとらわれてはいけません。
④ 私が生きている限り、帝の御運は開かれると思ってください。
楠木正成の言葉は後醍醐天皇の胸を打ち、また、後醍醐天皇を励ましました。
菊水紋の由来
元弘2年(1332年)9月、笠置山が陥落し、後醍醐天皇は隠岐国に流されます。
後醍醐天皇が隠岐国にいる間、楠木正成は赤坂城の戦い、千早城の戦いで、幕府軍を追い詰めました。
鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は建武の新政を開始。
楠木正成の功績を称えた後醍醐天皇は楠木正成に菊花紋を与えました。
ご存知のとおり、菊花紋は後鳥羽上皇をはじめ、多くの天皇が愛用した印。
楠木正成は天皇と同じ紋を使うなんておそれ多いと言って、菊花紋の下半分を流水に変更します。
楠木正成が流水を選んだ理由は、楠木正成の本拠地・河内国千早赤坂にある水分神社のご祭神が水神だから。
楠木正成が使った菊水紋は、まさに健康と長寿の象徴だったんですね。
まとめ:菊水紋は楠木正成の忠誠心の証!
楠木正成と後醍醐天皇の出会い、忠誠の言葉と菊水紋の由来を紹介しました。
楠木正成と後醍醐天皇を引き合わせたのは、後醍醐天皇が笠置山で見た夢。
後醍醐天皇に忠誠を誓い、功績を称えられた楠木正成は天皇と同じ菊花紋を与えられました。
恐縮した楠木正成は菊花紋の下半分を流水に変えて、菊水紋を使うようになりました。
楠木正成の忠誠心は紋にも表れていたんですね。
楠木正成は大河ドラマ「太平記」に登場しています。
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