① 官軍と細川軍(足利勢)
② 山門派の延暦寺と寺門派の三井寺
の戦いといわれる三井寺の戦い。
三井寺の戦いは官軍と延暦寺の作戦勝ちでした。
北畠顕家・新田義貞と細川定禅の三井寺の戦いの経過を紹介します。
北畠顕家と新田義貞が東坂本で軍議を開く
常陸国の佐竹貞義、鎌倉の足利義詮・桃井直常を破った北畠顕家。
その後、近江国の愛知川を越え、当時8歳の佐々木氏頼が守る観音寺城をあっという間に攻略しました。
建武3年(1336年)1月13日、北畠顕家は後醍醐天皇の仮内裏のある東坂本(比叡山麓)に到着。
箱根・竹ノ下の戦いで足利軍に敗れた官軍は士気が当然下がっていました。
でも、勝利を重ねる奥州軍が到着すると、士気が揚がります。
戦には勢いが肝心。
北畠顕家と新田義貞は軍議を早速開きました。
三井寺攻めが決定する
軍議の結果、奥州軍と新田義貞率いる官軍で三井寺(園城寺)を攻めることになりました。
① 山城国と近江国の国境にある関所・逢坂関
② 東山道・東海道に面し、京都と各地を繋ぐ粟田口
の東に位置する三井寺を攻略すれば、北陸から京に送られる兵糧を断つことができます。
足利尊氏軍の兵糧を断って士気を下げ、官軍が包囲すれば勝利できると考えました。
細川定禅軍を唐崎までおびき出す作戦に決定する
ただ、三井寺には、足利尊氏の家臣・細川定禅率いる6000人の兵がいます。
また、北畠顕家率いる奥州軍には騎馬隊が多く、三井寺で戦を行うのは不利でした。
そこで、奥州軍が三井寺を攻撃した後に退却し、唐崎(滋賀県大津市)まで細川軍をおびき出すことにします。
① 三井寺から6キロメートル
② 東坂本からわずか1.5キロメートル
の好立地。
細川軍をおびき出すことができれば、東坂本に援軍を要請して一気に攻撃することも可能でした。
北畠顕家・新田義貞が細川定禅に勝利する
北畠顕家は奥州軍を4つに分け、最も大きな被害を受けると予想される第一軍の指揮を千葉一胤に任せました。
ところが、16日、先陣を任された千葉一胤は喜びのあまり、命令を待たずに三井寺を奇襲。
千葉一胤率いる第一軍の兵の数は少なく、あっという間に討ち取られてしまいました。
北畠顕家は急いで自ら第二軍を率い、第三軍、第四軍を進軍させました。
予想以上に大きな被害を受けてしまいましたが、奥州軍は三井寺から予定通り退却しました。
奥州軍は唐崎まで細川軍をおびき出すことに成功。
奥州軍を追い続けた細川軍の陣形は縦に伸びきっていました。
琵琶湖からチャンスをうかがっていた官軍は、細川軍の横から矢を次々と放ちます。
更に、新田義貞率いる官軍が細川軍に突入。
退却を装っていた奥州軍も細川軍を攻撃し、細川軍は総崩れとなりました。
細川定禅は軍を率いて、三井寺に退却しました。
延暦寺の僧兵によって、三井寺が焼き討ちにあう
細川軍が三井寺に到着すると、三井寺と対立していた比叡山延暦寺の僧兵が待ち構えていました。
延暦寺の僧兵は三井寺に火を放ち、金堂を炎上させます。
細川定禅は三井寺を捨て、京に向かって逃げました。
三井寺の僧は金堂から弥勒仏を持ち出そうとしましたが断念し、頭部を切り落として運び出しました。
細川定禅に勝利した北畠顕家は、奥州軍と共に東坂本に戻ります。
でも、そこに、新田義貞の姿はありませんでした。
北畠顕家が東坂本に到着して間もなく、新田義貞が細川定禅を追って京に進軍しているという一報が届きます。
休む間もなく、北畠顕家は新田義貞に加勢するべく、京に向かうことになりました。
この2週間後、糺河原の合戦が勃発します。
まとめ: 北畠顕家と新田義貞は連携して勝利したものの…
北畠顕家・新田義貞と細川定禅の三井寺の戦いの経過を紹介しました。
三井寺の戦いに勝利した新田義貞は勝手に京へ進軍。
新田義貞に加勢するため、北畠顕家は休む間もなく参陣することになりました。
力を合わせて細川軍を破ったものの、北畠顕家と新田義貞の間には亀裂が生じ始めていました。
北畠顕家は大河ドラマ「太平記」に登場しています。
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