出羽国置賜郡(現在の山形県米沢市)に生まれた支倉常長。
支倉常長がキリスト教に改宗したのは44歳の時でした。
支倉常長がキリスト教(カトリック)に改宗した理由と洗礼名の由来を紹介します。
支倉常長がキリスト教(カトリック)に改宗した理由
支倉常長がキリスト教(カトリック)に改宗した理由は2つあります。
スペインの疑いを晴らしたかったから
慶長19年(1614年)、支倉常長を含む慶長遣欧使節はスペインの首都・マドリードに到着します。
マドリードは慶長遣欧使節の正使であるルイス・ソテロの出身地。
ところが、マドリードに到着した慶長遣欧使節を待ち受けていたのは事情聴取でした。
この頃、日本では、キリスト教の弾圧が既に行われていました。
キリスト教を弾圧しているのは、日本のトップ・徳川家康。
にも関わらず、徳川家康の家臣・伊達政宗はキリスト教国に使節団を派遣しました。
慶長遣欧使節の派遣目的はキリスト教の布教活動ではない。本当の目的は何か…
と、慶長遣欧使節に対して、疑いの目を向けていたんです。
慶長遣欧使節の最大の目的は通商交渉で、確かにキリスト教の布教活動が最大の目的ではありませんでした。
ただ、キリスト教の布教活動が最大の目的だということにしたほうが、通商交渉はスムーズに進みます。
☑ スペインの疑いを晴らす
☑ 交渉をスムーズに進める
ために、支倉常長はキリスト教に改宗しました。
キリスト教に支えられたから
スペインに到着する前、慶長遣欧使節はメキシコやキューバに立ち寄りました。
支倉常長が寝泊まりしたのは、フランシスコ会の修道院や教会。
滞在中には使節一行78人の洗礼式が行われました。
日本を離れた支倉常長は常にキリスト教と隣り合わせ。
長期にわたる船旅に、言葉の通じない異国での生活。
支倉常長がキリスト教に支えられることもあったに違いありません。
支倉常長がキリスト教に関心をもち、信仰するのは当然であり、自然な流れでした。
スペイン国王・フェリペ3世と謁見した支倉常長は、伊達政宗から預かっていた親書を渡します。
① 天の光を求めて、天の光に溢れているキリスト教のこの国に来た
② 主君(伊達政宗)は宣教師の派遣を求めている
③ 主君(伊達政宗)は国王に敬意を表し、私に友誼と奉仕を捧げるよう命じた
と言いました。
更に続けて、「国王の面前で洗礼を受け、新しい命をいただきたい」と言って洗礼を望みました。
日本はスペインから遠く離れた国…
日本人がキリスト教に改宗するのは、キリスト教がそれだけ信仰されている証拠だ。
支倉常長の発言を聞いたフェリペ3世は喜び、異教徒の排除とキリスト教徒・国の更なる増加を求めました。
① カトリックを熱心に信仰している
② 洗礼を受けた後、カトリックを熱心に布教するだろう
という印象をフェリペ3世に与えました。
翌年の慶長20年(1615年)年2月17日火曜日。
① フェリペ3世
② フランス国王・ルイ13世の王妃であるアンヌ・ドートリッシュ
が臨席し、王室跣足会女子修道院の教会において、支倉常長の洗礼式が行われました。
支倉常長の洗礼名の由来
支倉常長の洗礼名はフェリペ・フランシスコ。
② フランシスコ会の創始者・アッシジのフランシスコ
を組み合わせた洗礼名です。
この洗礼名は支倉常長と自らの地位向上を目的に、ソテロが提案したのではないかといわれています。
洗礼式を無事終えた支倉常長はフェリペ3世の部屋に呼び出されました。
支倉常長は、
① 国王に由来したフェリペという洗礼名を与えられたこと
② キリスト教徒になれたこと
を喜び、フェリペ3世は祝辞を述べました。
その後、慶長遣欧使節はローマに向かい、教皇・パウルス5世と謁見しました。
まとめ:支倉常長の洗礼名は偉大な人物の名前を組み合わせていた!
支倉常長がキリスト教(カトリック)に改宗した理由と洗礼名の由来を紹介しました。
伊達政宗によって、慶長遣欧使節の副使としてヨーロッパに渡った支倉常長。
① スペインの疑いを晴らしたかった
② キリスト教に支えられた
支倉常長はスペインで洗礼を受け改宗しました。
スペイン国王とフランシスコ会の創始者の名前に由来する洗礼名を与えられた支倉常長。
支倉常長はスペインでどのように評価されていたのでしょうか。
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