版元・蔦屋重三郎、浮世絵師・勝川春章、戯作者・山東京伝など。
江戸時代の文化人と交流し、また、数々の作品を共同制作した北尾重政。
北尾重政の生涯、逸話を紹介します。
北尾重政ってどんな人?
北尾重政は元文4年(1739年)生まれ。
江戸小伝馬町の地本問屋・須原屋三郎兵衛の長男として誕生しました。
南北朝時代の後醍醐天皇の側近「後の三房」の北畠親房の末裔だといわれています。
地本問屋に生まれた北尾重政は本に囲まれて育ちましたが、関心を抱いたのは絵。
10歳半ばで既に暦の版下を描いていました。
延享元年(1744年)に版元・江見屋吉右衛門が初めて製作した紅摺絵はまだまだ発展段階。
紅摺絵を見た北尾重政は、
こんな絵なら自分にだって描ける!
と思い、絵を学び始めました。
蔦屋重三郎と共に「一目千本」を制作
北尾重政が自身の作風を確立したのは安永年間(1772年から1781年)です。
安永3年(1774年)、北尾重政は蔦屋重三郎が初めて出版した遊女評判記「一目千本」の挿絵を描きます。
「一目千本」は遊女を例えた花が描かれ、その横に遊女の名前が記された吉原のガイドブック。
つまり、「一目千本」は北尾重政の手掛けた挿絵がメインの冊子でした。
近所の勝川春章と共に「青楼美人合姿鏡」を制作
安永5年(1776年)、
・版元である蔦屋重三郎と山崎金兵衛
・絵師である北尾重政と勝川春章
がタッグを組み、「青楼美人合姿鏡」を制作・出版します。
その後も、勝川春章と共に「かゐこやしない草」、「写真花鳥図会」を手がけました。
山東京伝と共に黄表紙「四季交加」を制作
寛政10年(1798年)、弟子・北尾政演と共に黄表紙「四季交加」を制作します。
といっても、北尾政演は絵を描いていません。
北尾政演は戯作者として「山東京伝」を名乗り、小説を書いていました。
山東京伝が執筆した「四季交加」は江戸の人々の月日、時間帯の動き、街の様子を詳しく書いたもの。
江戸で煙草屋を営み店番をしていた山東京伝は、通りを行き交う人々を観察して小説にしたんです。
その挿絵を描いたのが北尾重政でした。
江戸時代の文化を知る貴重な史料として高く評価されています。
北尾重政は後に美人画で活躍する鳥居清長に大きな影響を与えました。
また、鳥山石燕の門人だった喜多川歌麿を弟子のように可愛がったといわれています。
文政3年(1820年)、北尾重政は82歳で亡くなりました。
逸話は?
近所の勝川春章や弟子の山東京伝と共に制作活動を行った北尾重政。
面倒見のいい北尾重政には、次のような逸話が残っています。
師匠はいない
紅摺絵を見て、「こんな絵なら自分にだって描ける!」と思った北尾重政。
北尾重政は師匠につかず、絵を独学で学びました。
① 本姓・北畠に読みが似ている
② 北尾辰宣の「周囲に左右されず、自分の思いのままに描く」という信念に共感した
ことから、画姓を北尾としたといわれています。
新発田藩主・溝口直養のために芸者を描いた
新発田藩主・溝口直養は参勤交代で江戸に滞在。
滞在中に出会った日本橋の芸者に一目惚れします。
ただ、藩主という立場上、芸者になかなか会うことができません。
そこで、溝口直養は、
(芸者の)肖像画を手元に置いて、こっそり眺めたい。
一流の浮世絵師・北尾重政に描いてもらおう!
と考えます。
天明元年(1781年)、依頼を受けた北尾重政は芸者を写実的に描き、溝口直養に肖像画を贈りました。
寵愛する芸者の特徴をとらえた見事な肖像画に、溝口直養は大満足。
芸者に対する想いを書いた紙を肖像画の隣に飾って眺めたといわれています。
まとめ:弟子に藩主に喜多川歌麿まで。北尾重政は兄貴肌!
北尾重政の生涯、逸話を紹介しました。
北尾重政は版元・蔦屋重三郎が名を揚げるきっかけとなった「一目千本」の挿絵を手がけました。
北尾重政が「一目千本」の挿絵を描いていなければ、蔦屋重三郎は事業を拡大できなかったかもしれない…
そう考えると、蔦屋重三郎は北尾重政に足を向けて寝られなかったのではないでしょうか。
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