鈴木春信の亡き後、美人画で頭角を現した礒田湖龍斎。
礒田湖龍斎の描く美人画はどのようなものだったのでしょうか。
礒田湖龍斎の生涯、作風、版元・西村屋与八出版の「雛形若菜初模様」を紹介します。
礒田湖龍斎の生涯
礒田湖龍斎は享保20年(1735年)生まれで、土浦藩主・土屋家の浪人でした。
本名は礒田正勝といいます。
ただ、通称の湖龍斎は旧主の藩地・霞ヶ浦が由来だと考えられています。
礒田湖龍斎は初め鈴木春広と名乗りました。
鈴木と聞くと…
当時活躍した浮世絵師・鈴木春信を思い浮かべるかもしれません。
実は、礒田湖龍斎と鈴木春信の間に師弟関係はありません。
ただ、礒田湖龍斎の作風は鈴木春信の影響を強く受けています。
安永2年(1773年)には礒田湖龍斎と名乗り、柱絵を描きながら自らの作風を確立していきました。
天明2年(1782年)、絵師として名誉な地位である「法橋」に任命されました。
そして、寛政2年(1790年)に亡くなったといわれています。
礒田湖龍斎の作風
紹介したように、礒田湖龍斎は鈴木春信の影響を受けていました。
鈴木春信は華奢で可愛らしい女性を描きました。
安永元年(1772年)に鈴木春信が亡くなると、
鈴木春信の美人画をもっと見たい!
という人々の声に応え、礒田湖龍斎が華奢な女性を描きました。
そして、翌年の安永2年(1773年)から柱絵を描いて、自らの作風を確立していきます。
漢字から想像できるように、柱絵とは極端に縦長の絵を指します。
サイズは縦70cm×横12cm程度。
電柱に掛け軸を飾ると考えると分かりやすいかもしれません。
柱絵を描く前、礒田湖龍斎は細身の女性を描いていました。
でも、縦長に細身の女性を描くと、女性が縦に引き伸ばされたような印象を与えてしまいます。
違和感を抱いたのか、礒田湖龍斎はふくよかな女性を描くようになります。
ふくよかな女性であっても、柱絵にすれば、万人受けする丁度いいスタイルになりました。
版元・西村屋与八出版の「雛形若菜初模様」
礒田湖龍斎の代表作といえば、版元・西村屋与八の「雛形若菜初模様」シリーズ。
安永4年(1775年)から始まったシリーズで、吉原の高級遊女を禿や新造と一緒に描いています。
最初の11作品は蔦屋重三郎との共同出版です。
例えば、「雛形若菜初模様 鶴屋内新すかはら はつじ ふみじ」。
天明元年(1781年)、吉原の妓楼・鶴屋お抱えのすがはらが吉原細見で突きだし(デビュー)しました。
この作品はすがはらの突きだしを記念して出版したとされています。
描かれているのは、禿(かむろ)2人、新造2人、提灯を持つ番頭新造、すがはらの6人。
すがはらが大きな期待を寄せられた遊女だったことが判ります。
また、すがはらが身に着けているのは呉服屋の新しいデザインの衣装。
☑ 絵が大判サイズである
ことから、吉原や呉服屋の関係者が出版費用を負担(出資)している可能性が高いです。
「雛形若菜初模様」は現在でいうファッション雑誌。
ファッションに関心を抱く女性にも大人気の作品でした。
まとめ:礒田湖龍斎の描く美人画は当時のファッションの参考書!
礒田湖龍斎の生涯、作風、版元・西村屋与八出版の「雛形若菜初模様」を紹介しました。
人々の要望に応え、鈴木春信風の美人画を描いた礒田湖龍斎。
後に自らの作風を確立した礒田湖龍斎はふくよかでオシャレに着飾る女性を描きました。
晩年法橋に任命された礒田湖龍斎。
礒田湖龍斎が幅広く支持されていたことがよく分かりますね。
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