【陳】甥・廃帝(陳伯宗)を殺した宣帝(陳頊)ってどんな人?

南朝では、皇帝の座を巡る皇室間の争いが絶えませんでした。
陳の第4代皇帝・宣帝(陳頊)は甥・廃帝(陳伯宗)を殺して即位しました。

宣帝とはどのような人物なのでしょうか。

宣帝(陳頊)の生涯を紹介します。

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陳霸先の推薦を受けて元帝に仕える

宣帝は530年生まれで、陳道談の次男として誕生しました。

つまり、宣帝は第2代皇帝・文帝(陳蒨)の弟、初代皇帝・武帝(陳霸先)の甥にあたります。

名前は陳頊(ちんさ)といいます。

伯父・陳霸先は梁の一介の軍人でしたが、王僧弁と共に侯景を討ったことがきっかけで、梁の第4代皇帝・元帝から功績を称えられて、陳霸先は元帝に仕えることとなりました。

おゆう
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人手が不足していた元帝は、優秀な人材を差し出すよう陳霸先に命令しました。

陳霸先は甥・陳頊を元帝のもとに派遣し、元帝に気に入られた陳頊は直閤将軍・中書侍郎となりました。

西魏に連行される

554年、西魏が江陵を攻め、元帝が殺されると、元帝の傍にいた陳頊は西魏に捕らえられて、連行されてしまいました。

陳霸先が陳を建国して、初代皇帝・武帝として即位しても、兄・陳蒨が第2代皇帝・文帝として即位しても、陳頊は陳に帰ることを許されませんでした。

陳頊は長年にわたって、西魏、その後建国された北周に滞在することとなりましたが、武帝によって陳の始興郡王に封じられ、文帝によって安成王に改封されました。

廃帝を補佐する

562年3月、北周が陳頊を解放し、陳頊は陳に帰りました。

陳頊は侍中・中書監・中衛将軍となり、文帝の側近となって政務をサポートしました。
6月には、使持節・都督揚南徐東揚南豫北江五州諸軍事・揚州(江蘇省揚州市)刺史、驃騎将軍となり、564年4月には司空となりました。

おゆう
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566年3月には尚書令に任命されましたが、翌月4月に文帝が崩御。

文帝の後を継いで、陳伯宗が第3代皇帝・廃帝として即位しましたが、廃帝はわずか13歳で政務について理解できていませんでした。

廃帝が皇帝として政務をこなせないのではないかと心配した文帝は、陳頊、劉師知、到仲挙に廃帝のサポートをするよう遺詔を残していたため、遺詔にしたがって、陳頊は廃帝をサポートすることになりました。

即位する

文帝が崩御する前から尚書令を務めていた陳頊は政務をスムーズにこなしました。

すけさん
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一方、陳頊と共に廃帝をサポートするよう遺詔を残された劉師知と到仲挙は、宮廷行事を取りしきることに専念。

陳頊は自然と権力を握るようになりました。

陳頊が権力を握っていることに気付いた劉師知と到仲挙は、陳頊を揚州刺史として揚州に出向させ、朝廷から引き離そうと画策しました。
劉師知と到仲挙が自分を朝廷から追い出そうとしていることを知った陳頊は、先手を打って、劉師知と到仲挙を排除しました。

劉師知と到仲挙を排除し、より大きな権力を握ることとなった陳頊は、568年1月、太傅兼司徒となりました。

11月、廃帝を廃して、569年1月、陳頊は第4代皇帝・宣帝として即位しました。

570年4月、陳頊は廃帝を殺しました。

即位した宣帝は水路を整備したり、開墾したりして、農業に注力しました。
また、租税を減免して民を労わり、国内の安定を図りました。

おゆう
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ところが、577年、北周が北斉を滅ぼして華北を統一すると、北周との関係が悪化。

徐州の呂梁(江蘇省徐州市)で北周と戦うこととなりましたが、陳は北周に敗北し、淮南を北周に明け渡すこととなりました。

582年1月、病を患い、52歳で崩御しました。

まとめ

宣帝(陳頊)の生涯を紹介しました。

第2代皇帝・文帝の遺詔により、第3代皇帝・廃帝をサポートすることとなった宣帝。
宣帝は一緒に廃帝をサポートした劉師知、到仲挙を排除し、実権を握り、最終的には宣帝を廃して、自ら皇帝の座に就きました。

廃帝のサポートを任せた宣帝に、廃帝を殺された文帝。
文帝は、空からどのような気持ちで二人を見ていたのでしょうか。

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