【梁】寒門出身の侯景が軍を拡大できた理由

東魏から梁に帰順したものの、東魏と梁が和平を結び、2国の板挟みに遭ってしまった侯景。
548年8月、行き場所を失った侯景はわずか1000人の兵を率いて反乱を起こしましたが、たった3ヶ月で兵は10万人を超えました。

おゆう
おゆう

侯景は寒門出身で、ツテがあったわけではありません。

寒門出身の侯景が軍を拡大できた2つの理由を紹介します。

スポンサーリンク

蕭正徳の兵を吸収したから

紹介したように、侯景はわずか1000人の兵を率いて反乱を起こしました。

梁の都・建康の兵力は3万人を超えていたことを考えると、侯景の率いていた1000人の兵がどんなに精鋭であっても敗北は目に見えていたと思います。

おゆう
おゆう

でも、侯景は兵を失うことなく、建康城にたどり着きました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

というのも、建康には侯景と手を結んだ皇族がいたからです。

武帝(蕭衍)の弟・蕭宏の3男・蕭正徳は武帝から受ける扱いに不満を抱いていました。

時期は決めていなかったものの、いつか反乱を起こすつもりで、兵や食糧を集めて、挙兵の準備をしていました。
侯景は蕭正徳が武帝に不満を抱き、挙兵しようとしていることを知ると、蕭正徳に協力を求めました。

こうして、侯景は蕭正徳が率いていた、また、集めていた兵を吸収することができました。

兵に褒賞を与えたから

548年11月、侯景が建康城を包囲する頃には、侯景軍は10万人を超えていました。

おゆう
おゆう

紹介したように、建康の兵力は3万人で、蕭正徳が率いていた兵を吸収しても、10万人に届きません。

実は、侯景軍には軍事訓練を受けた兵の他、奴隷が含まれていました。
侯景は陥落し占領した城の奴隷を解放して厚遇し、味方につけました。

例えば、侯景の帰順を受け入れた後に、東魏と和平を結ぶことを進言した武帝の側近・朱异の奴隷を捕まえると、侯景は儀同三司の位を授けて、朱异の財産を全て与えました。

儀同三司の位を授かった元奴隷は馬に乗って、建康城の下に行き、城内にいる元主人・朱异に向かって、「朱异は50年間も仕えてやっと中領軍になれたが、私は侯景に仕えてすぐに儀同三司を授かった!」と言って威張りました。

元主人に威張った元奴隷を見て、主人に不満を抱いていた他の奴隷も侯景に仕えたいと申し出ました。

また、侯景は軍に入った後すぐに厚遇することはもちろん、手柄を立てるとすぐに褒賞を与えました。
そのため、兵は皆、侯景に献身的に仕えました。

蕭正徳の協力を得て、兵を失うことなく、建康城にたどり着いた侯景。
ところが、侯景は建康城をなかなか陥落できませんでした。侯景は建康城の東西に大きな土山を作って、建康城を見下ろすほどの高い場所から攻撃をしましたが、官軍も建康城内に土山を作り、侯景に応戦しました。大きな土山を作って攻撃すれば、建康城をすぐに陥落できると思っていたため、侯景は兵に優しく接して土山を作らせましたが、建康城を陥落できないことから焦り、そして、兵の疲れ、不満を感じ取りました。

そこで、侯景は民からの略奪を許可して、兵のガス抜きを行いました。
何の罪もない民が殺され、お金持ちを中心に金品が取られていきました。

そして、兵がストレスを解消できたところで、兵に昼夜通して土山を築かせました。

まとめ

寒門出身の侯景が軍を拡大できた2つの理由を紹介しました。

都・建康に3万人の兵が配備されていたにもかかわらず、侯景がたった1000人の兵を率いて反乱を起こしたのは、蕭正徳の兵を吸収し兵力を拡大できるという見込みがあったからです。
また、侯景は占領した城の奴隷を解放して厚遇したり、手柄を立てるとすぐに褒賞を与えたりしたため、侯景軍に志願する兵が多かったからです。

侯景は梁の社会構造の弱点を的確についたんですね。

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ

タイトルとURLをコピーしました