混乱に乗じて、隋を倒し、唐を建国した李淵。
李淵の子ども・李世民(後の唐の第2代皇帝・太宗)のほうが目立ちがちですが、李淵はどのような人物なのでしょうか。
高祖(李淵)の生涯、煬帝との関係を紹介します。
初代皇帝・高祖(李淵)ってどんな人?
李淵は566年生まれで、隴西郡(甘粛省定西市)の出身。
幼い頃から大活躍する
573年、李淵が7歳の時に李昞が亡くなり、李昞が封じられていた唐国公の爵位を受け継ぎました。
16歳で千牛備身という皇帝を護衛する役職に就き、その後、譙州(安徽省亳州市)、隴州(甘粛省平涼市)二州刺史、岐州(陝西省宝鶏市)刺史、殿内少監などを歴任しました。
612年、隋の第2代皇帝・煬帝(楊広)が高句麗遠征に乗り出すと、懐遠(安徽省蚌埠市)鎮で兵站(軍事機関)を監督しました。
太原留守に任命される
613年に、煬帝に不満を抱いた楊玄感が反乱を起こすと、弘化(陝西省楡林市)留守・元弘嗣が高句麗に逃亡し、衛尉少卿(衛尉寺の次官)を務めていた李淵は元弘嗣に代わって弘化留守となって、反乱の鎮圧に貢献しました。
突厥が侵攻すると、馬邑(山西省朔州市)太守・王仁恭と共に、突厥軍を撃退。
617年には、太原留守に任命されました。
挙兵する
功績を認められ、李淵は順調に出世していましたが、転機が訪れます。
太原留守在任中に出会った晋陽県長・劉文静、晋陽宮の副監・裴寂、そして、次男・李世民が隋に反乱を起こすようにアドバイスしたんです。
李淵は隋に反乱を起こすことに乗り気ではありませんでした。
そこで、李世民は李淵を罠にはめます。
皇帝に献上する宮女を李淵の周りに侍らせたんです。
皇帝に献上する宮女に、皇帝以外の人が手を出したと知られたら処刑されてしまいます。
李世民は「告発してほしくなければ、反乱を起こしましょう」と言って、李淵を脅したんですね。
息子が父を脅すなんて…
617年6月、李淵は隋に反旗を翻し、挙兵しました。
長安を陥落する
7月、李淵軍と隋軍が戦い、李淵軍は食糧難に陥り、李淵は退却して態勢を整えようとしました。
ところが、李世民は「一度引き返すと、兵はバラバラになってしまう」と言って、退却に反対しました。
李淵は李世民の考えに渋々従い、進撃を続けたところ、隋軍を破ることができました。
8月には突厥と同盟を結び、兵や馬の支援を受け、11月には首都・長安を陥落しました。
挙兵した当初、兵の数は3万でしたが、長安を陥落した時には20万を超えていました。
恭帝を即位させる
長安で留守を務めていた煬帝の孫・楊侑を、隋の第3代皇帝・恭帝として即位させました。
もちろん、煬帝の許可を得ていません。
実際、李淵は尚書令、大都督内外諸軍事、大丞相など、多くの官職に任命させました。
唐を建国し、即位する
618年5月、煬帝が近衛兵に殺されると、恭帝は李淵に譲位しました。
李淵は唐を建国し、唐の初代皇帝・高祖として即位しました。
李淵は第1子・李建成を皇太子に選び、反乱を起こすよう勧めた劉文静を納言(門下省の長官)、裴寂を右僕射(尚書省の次官)、李世民を尚書令(尚書省の長官)に任命しました。
当時、王世充は鄭を建国し、竇建徳は河北統一に乗り出し、蕭銑は梁を再興しようとするなど、群雄割拠。
李淵には戦わなければいけない相手がたくさんいましたが、621年までに、李世民が多くを平定しました。
唐の初代皇帝が誕生し、隋の第3代皇帝・恭帝はどうなったのでしょうか。
なんと、高祖の許可を得て、李世民は恭帝を殺してしまいます。
ここで重要なのは、高祖の許可を得てというところ。
おそらく、高祖は恭帝を殺そうと考えていなかったのではないかと思います。
私がそう考える理由は2つあります。
一つ目は、恭帝は高祖によって即位させられたから。
高祖が即位させなければ、恭帝は長安から脱出して、唐軍から逃げきれていたかもしれません。
高祖は恭帝に負い目を感じていたのではないかと思います。
二つ目は、高祖が残忍な性格ではないから。
高祖は優柔不断で、李世民が高祖の背中を度々押してきました。
また、敵の襲撃を受けて退却しようとする高祖を励ましたのも李世民です。
高祖が恭帝を殺そうとしないから、李世民が代わりに殺したのではないかと思います。
恭帝は煬帝の孫。
恭帝は隋を復興させようと、兵を募る可能性があります。
李世民はそのリスクを心配して、恭帝を殺したのかもしれませんね。
玄武門の変が起きる
唐の建国、安泰に貢献した李世民は、李建成から敵対視されるようになり、李建成は弟・李元吉と共に、李世民の暗殺を企てるようになりました。
高祖の后妃を巻き込んだり、臣下を買収し合ったり、左遷したりと、皇太子争いは泥沼化。
626年6月4日、李世民は玄武門で李建成と李元吉を殺しました。
これを玄武門の変といいます。
李世民に譲位する
李淵は李世民を皇太子にした後、3ヶ月も経たないうちに、李世民に譲位し、太上皇となって隠居生活を送りました。
635年、71歳で亡くなりました。
煬帝との関係は?
紹介したように、李淵の母は独孤氏です。
独孤氏は武川鎮軍閥の重鎮である独孤信の四女です。
一方、煬帝の母は独孤伽羅といって、独孤信の七女です。
つまり、李淵と煬帝は従兄弟です。
系図で表すと、以下のようになります。
まとめ
高祖(李淵)の生涯、煬帝との関係を紹介しました。
功績を認められ、李淵は順調に出世していましたが、李世民の罠にはまり、挙兵しました。
挙兵して5か月後には、隋の首都・長安を陥落しました。
唐建国、皇帝即位の準備を整えるため、煬帝の孫・楊侑を即位させました。
煬帝が殺されると、恭帝は李淵に譲位し、李淵は唐を建国して、唐の初代皇帝・高祖として即位しました。
ところが、唐の建国、安泰に貢献した李世民は、兄である皇太子・李建成から敵対視されるようになり、李世民は玄武門で建成と弟・李元吉を殺しました。
玄武門の変から3ヶ月も経たないうちに、李淵は李世民に譲位し、隠居生活を送って、71歳で亡くなりました。
李世民がいなければ、李淵は挙兵したり、唐を建国したりすることもなく、また、子ども二人を失うこともなかったかもしれませんね。
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