【隋】楊堅の妻・独孤伽羅ってどんな人?一夫一妻制を強制したって本当?

300年ぶりに中国を統一した隋の初代皇帝・楊堅。
中国のトップに立った楊堅も、家庭では尻に敷かれていました。

実は、楊堅より強かった妻・独孤伽羅は、どのような人物なのでしょうか。

楊堅の妻・独孤伽羅の性格、当時は珍しかった一夫一妻制を紹介します。

スポンサーリンク

楊堅の妻・独孤伽羅ってどんな人?

独孤伽羅は544年生まれで、父・独孤信と母・崔氏の間に七女として誕生しました。

プライドが高い

557年、独孤伽羅は楊堅に嫁ぎました。
541年生まれの楊堅に対して、独孤伽羅は3歳年下でしたが、発言権は独孤伽羅にありました。

おゆう
おゆう

というのも、独孤伽羅の出身民族である・鮮卑では、女性の地位が高かったんです。

おまけに、独孤伽羅の父・独孤信は武川鎮軍閥の重鎮で、姉・明敬独孤皇后は北周の第2代皇帝・明帝の正妻。
独孤伽羅は自分の出身に自信をもっていました。

負けず嫌い

楊堅と弟・楊瓚は、同じ生母・呂苦桃から生まれ、兄弟の中でも、特に強い結びつきでした。
ところが、北周の第3代皇帝・武帝(宇文邕)の妹・順陽公主が楊瓚に嫁ぐことになりました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

順陽公主の家柄(宇文氏)は独孤伽羅より格上。

独孤伽羅は順陽公主と折り合いが悪く、楊堅と楊瓚の仲は悪くなってしまいました。

負けず嫌いの独孤伽羅は、楊堅と自分の地位を高めるべく、騎虎の勢いという言葉を使って、皇帝に即位するように、楊堅の尻を叩きました。

騎虎の勢いとは、虎の背中に乗った者が、途中で虎から降りようとすると、虎に食い殺されてしまうので降りられないという例え。

つまり、勢いに乗って、とことん昇りつめていくしかないということです。

ところが、北周を倒す準備を進める楊堅に反対した人物がいました。

坊っちゃん
坊っちゃん

楊瓚です。

楊瓚の妻・順陽公主は北周の出身。
楊堅が北周を倒せば、楊瓚は順陽公主から恨まれてしまいます。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

では、楊堅が反乱に失敗すればいいのかというと、そういうわけではありません。

楊堅が反乱に失敗すれば、楊瓚は反乱者の親族として処刑されてしまいます。
どちらに転んでも、楊瓚にとって最悪の結末なんです。

楊瓚は楊堅を止めようと、暗殺を企てましたが失敗。
楊堅は楊瓚を咎めることなく、穏便に済ませました。

でも、楊堅が隋を建国し、文帝として即位すると、楊堅は楊瓚に離婚するように勧めました。

坊っちゃん
坊っちゃん

当然、楊瓚は受け入れません。

楊瓚の気が変わることを願って、楊堅は楊瓚をこれみよがしに冷遇しました。
でも、冷遇された楊瓚は楊堅をますます恨むようになり、楊堅に呪いをかけました。

591年、楊堅は楊瓚を宴会に招待しました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

楊瓚は出席しましたが、宴会の最中に急死。

楊堅と楊瓚が長期にわたって対立していたことを知らない者はいません。
実際のところ、楊堅が楊瓚を殺したのかどうかは分かりませんが、楊堅が楊瓚を殺したのではないかと、皆が噂をしました。

嫉妬深い

当時、皇帝が側室を抱えることは当たり前でしたが、独孤伽羅は楊堅が側室との間に子どもをもうけることに反対しました。

皇帝になったら、子孫をできるだけ多く残さなければいけません。

側室との間に子どもをもうけることを禁止した独孤伽羅は、
楊勇、楊広(後の隋の第2代皇帝・煬帝)、楊俊、楊秀、楊涼の5人の男の子、
楊麗華、襄国公主、広平公主、楊氏、蘭陵公主の5人の女の子
を出産しました。

一夫一妻制を強制したって本当?

紹介したように、独孤伽羅は楊堅が側室との間に子どもをもうけることに反対しました。

おゆう
おゆう

子どもをもうけなければ、側室と何をしてもいいわけではありません。
楊堅を一日中見張ることができなかった独孤伽羅が譲歩したんだと思います。

楊堅が側室との間に子どもをもうけることに反対した独孤伽羅。

独孤伽羅には、次のようなエピソードがあります。

側室・尉遅熾繁を殺した

楊堅は側室との間に子どもをもうけませんでしたが、独孤伽羅の目を盗んで、側室を寵愛しました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

密会の相手は、尉遅熾繁。

尉遅熾繁は北周の第4代皇帝・宣帝の側室であり、側室に迎えられる前は、北周の宗室・宇文温に嫁いでいました。
尉遅熾繁は絶世の美女で、北周が滅亡すると、楊堅は独孤伽羅に隠れて、尉遅熾繁を寵愛してしまったんです。

尉遅熾繁が寵愛を受けていることを知った独孤伽羅は、楊堅が留守にしている間を見計らって、尉遅熾繁を呼び出し斬ってしまいました。

楊堅の側近・高熲を排除した

独孤伽羅は楊堅の側近・高熲を排除しましたが、その理由は2つあります。

たった一人の女性呼ばわりされたから

尉遅熾繁が独孤伽羅に斬られたことを知った楊堅は、馬に乗って宮廷を飛び出しました。

宮廷に戻らない楊堅を心配し、高熲は楊堅を見つけるなり、「たった一人の女性のために、国を捨てるつもりですか」と叱りました。

我に返った楊堅は宮廷に戻り、独孤伽羅は楊堅を連れ戻した高熲に感謝しましたが、「たった一人の女性」よばわりされたことを知った独孤伽羅は高熲を嫌うようになりました。

愛人がいることを隠したから

60歳を過ぎた頃、高熲が妻を亡くしたので、楊堅を通じて、独孤伽羅は高熲に再婚を勧めました。

すると、高熲は「年も年で、朝廷から帰宅しても、ただ仏経を読んでいるだけです。再婚する気はありません」、「亡くなった妻を愛し続けたいんです」と言って断りました。

おゆう
おゆう

再婚を勧めておきながら、独孤伽羅は再婚を断った高熲に感心しました。

ところが、それから間もなく、高熲に男の子が生まれました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

高熲には愛人がいて、愛人が男の子を出産したんです。

楊堅は高熲に子どもが生まれたことを喜びましたが、独孤伽羅は大怒り。
独孤伽羅が怒った理由は、愛人がいることを高熲が隠して、嘘をついたからです。

独孤伽羅は楊堅を通じて、高熲に再婚を勧めました。

おゆう
おゆう

つまり、高熲は楊堅にも嘘をついたことになります。

独孤伽羅に指摘されて、喜んでいた楊堅は高熲に騙されたことに気付き、夫婦揃って、高熲を嫌うようになりました。

皇太子・楊勇を廃した

独孤伽羅と楊堅は、皇太子・楊勇を嫌っていました。

すけさん
すけさん

自分の子どもを嫌うなんて、親子の間に何があったのでしょうか。

楊勇は側室をたくさん抱えていましたが、中でも、寵愛を特に受けていたのが、雲昭訓でした。
邪魔になった正妻・元氏は幽閉され、病死してしまいました。

坊っちゃん
坊っちゃん

楊勇と元氏の縁談をまとめたのは、他でもない独孤伽羅。

独孤伽羅は楊勇を呼び出して叱りましたが、楊勇は反省しません。
一夫一妻制を貫いてきた楊堅と独孤伽羅は、楊勇を嫌うようになったんです。

楊堅は楊勇を廃そうとしましたが、廃する前に、高熲に意見を聞くことにしました。

おゆう
おゆう

すると、高熲は楊勇の廃位に反対しました。

というのも、楊勇の第2皇女・大寧公主が、高熲の子ども・高表仁に嫁いでいて、高熲と楊勇が姻戚関係にあったからです。

楊勇が廃されれば、高熲にも悪影響が及びます。

高熲が楊勇の廃位に反対したことを知った独孤伽羅は、第2皇子・楊広に愚痴をこぼすようになりました。
楊広は兄・楊勇が廃されれば、次に皇太子になるのは自分だと考え、楊勇を廃する策を考えました。

こうして、独孤伽羅と楊広は、楊勇を廃するために、自然と協力するようになりました。

まとめ

楊堅の妻・独孤伽羅の性格、当時は珍しかった一夫一妻制を紹介しました。

プライドが高く、負けず嫌いで、嫉妬深かった独孤伽羅。
側室を抱えるのが当たり前の時代でしたが、独孤伽羅の尻に敷かれていた楊堅は、側室との時間を楽しむことができませんでした。

でも、独孤伽羅が尻に敷いていなければ、楊堅は中国を統一していなかったかもしれませんね。

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ

タイトルとURLをコピーしました