隋の初代皇帝・文帝(楊堅)は、第1皇子・楊勇を皇太子に冊立しました。
ところが、19年後、楊勇は皇太子を廃されて、庶人に落とされてしまいます。
楊勇の身に何があったのでしょうか。
楊勇の生涯、皇太子を廃された理由を紹介します。
文帝(楊堅)の第1皇子・楊勇ってどんな人?
楊勇は父・楊堅と母・独孤伽羅の間に、第1皇子として誕生しました。
皇太子になる
581年、楊堅が隋を建国し、初代皇帝・文帝として即位すると、楊勇は皇太子に冊立されました。
幼い頃から、楊勇は勉強熱心で、詩文に優れていました。
また、大らかな性格で、話の合う者には、身分に関係なく友人として接しました。
皇太子を廃される
楊勇が皇太子に冊立されたことを、第2皇子・楊広はつまらなく思っていました。
皇太子にふさわしいのは自分だと自負していた楊広は、楊勇から皇太子の座を奪う機会をうかがっていました。
600年、楊広の策略にはまり、文帝の怒りを買った楊勇は皇太子を廃され、庶人に落とされました。
皇太子の座を狙う楊広に謀られただけだと言って、文帝の怒りを解こうとする者もいましたが、文帝は聞き入れませんでした。
楊広の側近・楊素によって、楊勇が心神喪失状態にあると嘘を吹き込まれた文帝は、楊勇と面会しませんでした。
宣華夫人は文帝に事実を告げ、文帝は初めて楊広に騙されていたことに気付きました。文帝は楊勇を呼び出そうとしましたが、楊広によって暗殺されてしまいました。
楊勇は文帝の最期を看取ることなく、楊広が作った偽の遺勅によって、自害を命じられました。
楊勇がこの世を去った後、楊勇の皇子も楊広に殺されてしまいました。
皇太子を廃された理由は?
楊堅が文帝として即位すると同時に、皇太子になった楊勇。
何故、楊勇は皇太子を廃されたのでしょうか。
その理由は3つあります。
礼儀知らずだったから
紹介したように、楊勇は詩文に優れ、また、大らかな性格の持ち主でした。
ただ、その一方で、楊勇には、金遣いが荒く、また、礼儀を知らないという面もありました。
周辺諸国と同盟を結んだり、紛争を解決したりする際に、皇帝が礼儀を知らなければ、周辺諸国と揉めてしまうかもしれません。
楊勇に皇太子の素質があるのかどうか、文帝は悩んでいました。
正妻を大切にせず、側室を寵愛したから
楊勇は正妻・元氏がいましたが、たくさんの側室を抱えていました。
正妻と側室を平等に寵愛すれば良かったものの、側室の中でも、雲昭訓を特に寵愛し、元氏は寵愛されないまま、病気でこの世を去ってしまいました。
楊勇には10人の皇子、2人の皇女の合計12人の子どもがいましたが、全て側室が産み、元氏が産んだ子どもはいませんでした。
独孤伽羅から一夫一妻制を強要されていた文帝にとって、息子が側室を抱え、正妻より側室を寵愛するなんて理解できないことでした。
独孤伽羅と仲の悪い高熲と仲が良かったから
楊勇の第2皇女・大寧公主は、左僕射・高熲の高表仁と結婚しました。
高熲と姻戚関係であった独孤伽羅は、高熲が妻を亡くしたことを知り、女性を紹介しようと、再婚を提案しました。
すると、高熲は「残りの人生、妻だけを愛して生きたい」と言って、独孤伽羅の提案を断りました。
ところが、間もなく、高熲は愛人との間に子どもを授かったんです。
騙された独孤伽羅は高熲を憎むようになり、高熲と仲が良かった楊勇は、文帝と独孤伽羅から「良からぬことを企んでいるのではないか」と疑いの目で見られるようになりました。
紹介したように、楊勇には、文帝と独孤伽羅から嫌われる要素がたくさんありました。
楊勇が嫌われていること、その理由を知った楊広は、文帝と独孤伽羅から気に入られようと、楊勇とは正反対の行動に出ました。
楊広は側室を抱えていないふりをしたり、高熲を排除する手立てを提案したりしました。
結果、文帝と独孤伽羅は「楊勇より、楊広のほうが皇太子に適しているのではないか」と思うようになり、楊勇は廃されたんですね。
まとめ
楊勇の生涯、皇太子を廃された理由を紹介しました。
隋が建国され、楊堅が初代皇帝・文帝として即位すると、第1皇子である楊広は皇太子に冊立されました。
楊勇は勉強熱心で、大らかな性格でしたが、正妻より側室を寵愛したうえに、礼儀を知らず、文帝と独孤伽羅から嫌われました。
そして、皇太子の座を狙う第2皇子・楊広の策略により、楊勇は皇太子を廃され、庶人に落とされてしまいました。
礼儀を知らなかったのは、文帝と独孤伽羅の教育方針に問題があったのではないかと思いますが、一夫一妻制の夫婦の息子が、正妻より側室を寵愛したのは、楊勇が一夫一妻制に疑問を抱いていたからかもしれませんね。
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