藩士を務めながら、浮世絵師、戯作者として活躍した恋川春町。
ところが、44歳で幕府からお咎めを受けてしまいます。
恋川春町の生涯と処罰された理由、代表作「金々先生栄花夢」を紹介します。
恋川春町ってどんな人?
恋川春町は延享元年(1744年)生まれで、桑島勝義(九蔵)の次男として誕生しました。
混乱を避けるため、こちらでは恋川春町と記載します。
父・桑島勝義は紀州徳川家附家老・安藤次由(帯刀)の家臣。
宝暦13年(1763年)には駿河小島藩士となり、中小姓格右筆見習書役兼帯に任命されます。
この年、同じく駿河小島藩士を務める伯父・倉橋勝正の養子となりました。
洒落本の挿絵を手がける
その後、小納戸格、刀番に任命されます。
明和8年(1771年)、小島藩主・松平昌信が亡くなり、松平信義が跡を継ぐと、恋川春町は更に出世。
一方で、鳥山石雀に絵を学び、洒落本の挿絵を手がけるようになりました。
「金々先生栄花夢」を執筆する
安永2年(1773年)には、朋誠堂喜三二の書いた洒落本「当世風俗通」の挿絵を描きます。
そして、ついに恋川春町の筆名で、
・安永4年(1775年)に「金々先生栄花夢」
・安永5年(1776年)に「高満斎行脚日記」
を自ら執筆。
また、この年、取次兼留守居添役に任命されました。
養父・倉橋勝正が隠居すると、恋川春町は家督を相続。
石高100石となる内用人になりました。
酒上不埒として狂歌を作る
天明元年(1781年)には、側用人兼用人方助ヶ、用人、年寄格加判之惣となり、藩政中枢に参与するようになります。
出世するにつれて藩職が忙しくなり、文筆活動は停滞しました。
それでも、天明2年(1782年)には、酒上不埒という名で狂歌をつくって一派を立てました。
天明7年(1787年)、年寄本役、石高120石となります。
何故処罰された?
浮世絵師、戯作者、藩士とさまざまな方面で活躍していた恋川春町。
寛政元年(1788年)に執筆した黄表紙「鸚鵡返文武二道」が幕府の目に触れ、呼び出しを受けてしまいます。
というのも、寛政の改革を推し進める松平定信政権下の武士階級をからかったからです。
恋川春町は病を患っていると言って、出頭を拒み続けました。
でも、いつまでも逃げられるわけがありません。
自分の置かれた立場、運命を悟った恋川春町は長年連れ添った妻に離縁を申し出ます。
更に、子どもとも縁を切りました。
この年の夏、恋川春町は46歳の若さで亡くなりました。
死因は病、もしくは自殺だといわれています。
代表作「金々先生栄花夢」とは?
恋川春町の代表作は安永4年(1775年)刊行の「金々先生栄花夢」。
「金々先生栄花夢」は版元・鱗形屋孫兵衛から刊行されました。
「金々先生栄花夢」は中国王朝・唐の小説家・沈既済の書いた「邯鄲」のパロディです。
沈既済は宰相・楊炎が罷免されると、連坐して処州に左遷されました。
「金々先生栄花夢」の概要は次のとおりです。
江戸でひと花咲かせようと田舎から出てきた金村屋金兵衛は、目黒不動で粟餅を注文します。
粟餅ができるまでのわずかな時間に、金兵衛は富裕層の娘と結婚する夢をみました。
そして、派手な生活を送った金兵衛が遊び過ぎて勘当されたところで目が覚めます。
人間の一生分の楽しみは粟餅ができ上がるまでの短期的なものだ…
そう悟った金兵衛は田舎に帰りました。
いわゆる「夢オチ」の「金々先生栄花夢」は黄表紙の生みの親として、歴史的価値があるとされています。
まとめ:恋川春町は作家の信念を曲げなかった!
恋川春町の生涯と処罰された理由、代表作「金々先生栄花夢」を紹介しました。
年寄本役、石高120石の藩職に、30作にも及ぶ戯作と挿絵。
江戸中期において、恋川春町は偉才だったに違いありません。
それと同時に、自分の想いを形にしたかったのでしょう。
寛政の改革による取り締まりがなければ、恋川春町は才能を発揮し続けたかもしれませんね。
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