慶長遣欧使節の副使としてヨーロッパに渡った支倉常長。
支倉常長を迎えに行ったのは横沢将監吉久でした。
① サン・ファン・バウティスタ号の船長・横沢将監吉久の生涯
② 横沢将監吉久がつくった将監堤
を紹介します。
サン・ファン・バウティスタ号の船長・横沢将監吉久
慶長遣欧使節の正使としてヨーロッパに渡ったルイス・ソテロ。
ルイス・ソテロは、
① 仙台藩とスペインの通商交渉を成立させる
② 自らが日本の大司教になる
ために、よく嘘をついていました。
スペインの名門出身であるにも関わらず、スペインにおけるルイス・ソテロの立場は悪化する一方でした。
そこで、ルイス・ソテロは支倉常長と一緒に日本に帰ろうと試みます。
ルイス・ソテロは伊達政宗に日本帰国のための船を要請。
ルイス・ソテロから迎えの船を要請された伊達政宗は、サン・ファン・バウティスタ号をメキシコに送ります。
サン・ファン・バウティスタ号の船長として浦賀を出発
元和2年(1616年)9月、
① 横沢将監吉久が司令官、または、船長
② 船出奉行・向井忠勝が船頭
として、サン・ファン・バウティスタ号に乗船。
商人・皆川與五郎、堺六郎も同乗し、浦賀を出発しました。
メキシコ市にて洗礼を受ける
メキシコのアカプルコ港に到着した後、横沢将監はメキシコ市にて洗礼を受けます。
マニラ総督であり、代父でもあるアロンソ・ハシャルト・デ・テンサの名前に由来します。
支倉常長と会った横沢将監吉久は、日本国内や伊達政宗の様子を話します。
その後、支倉常長の嫡男・常頼から預かった書状を手渡しました。
仙台藩とマニラの通商交渉に臨む
この頃、
① プロテスタント国(オランダとイギリス)
② カトリック国(ポルトガルとスペイン)
の間で戦闘が激化。
1618年には、マニラ湾がオランダ艦隊に封鎖されていました。
洗礼を受けた横沢将監吉久は、
マニラ総督と共にオランダと戦いたい。
と言います。
そして、サン・ファン・バウティスタ号を戦艦として利用できるように売却しました。
この一年前、慶長遣欧使節はスペインとの通商交渉に失敗し、スペインから強制的に追い出されました。
① 洗礼を受ける
② カトリック国に協力する
ことで、横沢将監吉久はマニラとの通商だけでも実現しようとしたのかもしれません。
ただ、江戸幕府は宗教と貿易を完全に切り離すオランダやイギリスとの外交を重視していました。
そのため、仙台藩とマニラの通商交渉も失敗に終わってしまいました。
横沢将監吉久は将監堤をつくった!
横沢将監吉久は元和6年(1620年)8月に帰国。
メキシコ市で改宗したものの、
① 日本でキリスト教徒の弾圧が行われていた
② マニラとの通商交渉が失敗に終わった
ことから、わずか2年で棄教します。
その後、新田開発に長けた後藤寿庵と共に、将監堤(将監沼)と呼ばれる人造湖をつくりました。
将監堤は仙台市を縦に走る地下鉄南北線「泉中央駅」から徒歩15分の将監風致公園の中にあります。
① 将監堤
② 将監風致公園
③ 将監という地域名
の由来は、もちろん横沢将監吉久。
メキシコに渡った横沢将監吉久が帰国後、故郷の発展に貢献したことがよく分かりますね。
まとめ:隠棲しながらも、故郷の発展に努めた横沢将監吉久!
① サン・ファン・バウティスタ号の船長・横沢将監吉久の生涯
② 横沢将監吉久がつくった将監堤
を紹介しました。
サン・ファン・バウティスタ号でメキシコにいる支倉常長を迎えに行った横沢将監吉久。
晩年横沢将監吉久は棄教して、隠棲しながらも故郷の発展に努めました。
春には、バス道路沿いと将監風致公園に咲き誇る桜が連なり、桜のトンネルが出来上がります。
桜を見ながら、将監堤のほとりを散歩し、横沢将監吉久の人生に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
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