
幕末は勝海舟や坂本龍馬、西郷隆盛などの有名人がもりだくさん!
.jpg)
その中に、
「もしこの人がいなかったら、日本の近代化は数十年遅れていた」
と評される天才政治家がいました。
江戸幕府の目付や勘定奉行などを歴任した小栗忠順(小栗上野介)です。
後に大隈重信は「明治政府の近代化政策は小栗の模倣に過ぎない」と語ります。
作家・司馬遼太郎も「明治国家の父の一人」と高く評価しました。
小栗忠順が残した5つの功績をわかりやすく紹介します。
横須賀製鉄所(造船所)の建設と働き方改革
小栗忠順の最大の功績は、横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)の建設です。
安政7年(1860年)に遣米使節のメンバーとして、小栗忠順はアメリカを訪れます。
そこで、小栗忠順は現地の造船所や工場の圧倒的な生産力に衝撃を受けました。
.jpg)
日本にも西洋式の大型船を建造・修理できる大きな工場が必要だ。
ただ、当時の幕府は財政難であり、さらに倒幕の気配がただよっていました。
巨額の予算を投じることに、猛反対が当然巻き起こります。
.jpg)
幕府の運命が尽きても、日本の運命には限りがない。
完成した造船所は、新政府という次の家主へ譲ればよい。
「土蔵付きの売り家」を残すのだ。
小栗忠順は反対派をこのように説得して事業を強行しました。
この言葉どおり、製鉄所は明治政府へと引き継がれます。
そして、後の日露戦争で日本海軍を勝利へ導く技術的基盤となりました。
注目したいのは、建物をつくったことだけではありません。
「現代の日本の働き方や会社組織のシステム」を日本で初めて導入した点です。
月給制と残業手当
当時の日本の労働環境は、日雇いや出来高払いが一般的でした。
小栗忠順はフランスの制度を参考に、働く人々に対して「月給制」を導入。
雨が降って働けない日があっても、毎月決まった基本給を支払いました。
さらに、所定の労働時間を超えて働いた場合には「残業手当」を支給する仕組みまで整えました。
雇用規則
当時の職人の世界には、明確なマニュアルや就業規則はありません。
親方の背中を見て、仕事やルールを覚えるのが当たり前でした。
小栗忠順は①勤務時間、②休日、③手当、④解雇条件などを明記した「雇用規則(就業規則)」を策定。
労働条件を可視化して、公平で組織的な労働環境をつくり上げました。
社内教育
より品質の高い船をつくるには、高度な技術を要する機械の操作や製鉄技術の定着が必要です。
小栗忠順は工場内に教育施設(製鉄所附属校舎)を併設しました。
技術者や作業員に対し、現場で必要な数学(算術)・語学(フランス語)・製図などの技術教育を実施。
「技術をもった専門の人材」を組織内で育てるという「現代の社内研修制度」を導入しました。
洋式簿記
巨大な工場の建設・運営には、複雑な資金の流れを正確に管理する財務システムが不可欠です。
小栗忠順は日本の伝統的な「大黒帳(和式簿記)」を捨て、洋式簿記(複式簿記)を導入。
洋式簿記は資金の出入りや資産価値を正確に把握することができます。
これにより、無駄なコストを削ったり、予算をしっかり管理したりしました。
職務分掌
さまざまな役職が幕府には存在しましたが、実は責任の所在があいまい。
そこで、小栗忠順は誰が・どの権限をもち・何の業務を担当するのかを明確にしました。
「職務分掌(役割分担の仕組み)」の確立です。
① 工場長・技術責任者・財務担当・一般作業員などを階層化
② 各部署の権限と責任を明確化
して、組織として動く近代的な工場運営を実現しました。
滝野川火薬工場の建設
小栗忠順は日本の軍事面の自立を目指していました。
元治元年(1864年)に「滝野川火薬工場」を建設し、兵器や弾薬の国産化に着手します。
当時の幕府は、火薬の多くを海外からの輸入に頼っていて、高額な費用がかかっていました。
そこで、水力や蒸気機関を利用した火薬製造施設を整備し、黒色火薬を自国で量産できる体制を整えました。
この工場もまた明治政府へと引き継がれ、「陸軍板橋火薬製造所」として日本の防衛産業を支え続けます。
日本初のフランス語学校とフランス式近代陸軍の編成
フランスからの技術導入を進めるにあたって、小栗忠順が同時に取り組んだのが、
① 言語(フランス語)の壁の排除
② フランス式近代陸軍の編成
です。
日本初のフランス語学校
慶應元年(1865年)、横浜に日本初のフランス語学校「横浜仏語伝習所」を設立しました。
幕府の役人や旗本の子弟を集め、フランス人講師による語学・技術教育を実施。
現場に直結する語学教育を受けた卒業生は、横須賀製鉄所の通訳や技術者として活躍します。
また、明治以降も日本の外交や法学、教育の分野で第一線のリーダーになりました。
フランス式近代陸軍(伝習隊)の編制
横須賀製鉄所をつくったことで、海軍のイメージが強い小栗忠順。
実は、小栗忠順は幕府陸軍の近代化においても、重要な役割を果たしました。
小栗忠順はフランスからシャノワール大尉をはじめとする軍事顧問団を招きます。
そして、従来の武士個人に頼る戦い方から、組織的な兵制への改革を進めました。
歩兵・砲兵・騎兵を組み合わせたフランス式の最新戦術を導入し、伝習隊を編制。
フランス式陸軍のノウハウは、明治陸軍の骨組みになりました。
日本初の株式会社「兵庫商社」の設立
小栗忠順は、日本の近代ビジネスの根幹「株式会社」の仕組みを日本で初めて形にしました。
海外の巨大な資本を持つ外国商社に対抗するべく、慶應3年(1867年)、小栗忠順は商社の設立を提案。
関西の豪商(出資者)を集めて資金を募り、「兵庫商社」を設立しました。
ただ、国益・資金規模の観点から考えると、「兵庫商社」は「亀山社中」に勝ります。
築地ホテル館の建設
開国すると、多くの外国人宿泊客や外交官を迎えなければいけません。
そこで、慶応4年(1868年)、築地に日本初の本格的な洋式ホテル「築地ホテル館」を建設しました。
.jpg)
開業からわずか4年後、築地ホテル館は火災で焼失します。
ただ、「日本が近代国家として外国人を迎えられる」とアピールすることができました。
まとめ:小栗忠順は「土蔵付きの売り家」を残した!
小栗忠順が残した5つの功績をまとめると、
② 滝野川火薬工場の建設:軍需物資・兵器の国産化
③ 日本初のフランス語学校とフランス式陸軍の編成:近代化を支える人材育成
④ 日本初の株式会社「兵庫商社」の設立:近代ビジネスモデルの提示
⑤ 築地ホテル館の建設:外交・国際インフラの整備
となります。
小栗忠順の最期は無実の罪を着せられて、42歳の若さで処刑されます。
しかし、小栗忠順がつくった施設、制度、人材というインフラは、明治政府に引き継がれました。
小栗忠順の残した「土蔵付きの売り家」があったからこそ、日本は急速な近代化を果たせました。
.jpg)
現代日本の産業・経済・組織のベースを幕末に設計していた小栗忠順。
小栗忠順はまさに天才政治家ではないでしょうか。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!
![]()
