一介の書店から江戸指折りの地本問屋(版元)となった蔦屋重三郎。
蔦屋重三郎が事業を拡大する前、江戸の出版会を牛耳っていたのは鱗形屋孫兵衛でした。
蔦屋重三郎のライバル・鱗形屋孫兵衛が経営破綻した理由を紹介します。
蔦屋重三郎のライバル・鱗形屋孫兵衛
鱗形屋孫兵衛は江戸の地本問屋「鱗形屋」のオーナー。
万治年間(1658年から1661年)に、大伝馬町(現在の東京都中央区日本橋)に店を構えました。
浮世草子の江戸における出版権を独占する
鱗形屋は鱗形屋孫兵衛で3代目。
① 初代・鱗形屋加兵衛は、江戸の遊郭・吉原を取材した遊女評判記
② 2代目・鱗形屋三左衛門は、絵師・菱川師宣を起用した挿絵入り本
を出版します。
3代目・鱗形屋孫兵衛は、京都の出版人・八文字屋自笑の浮世草子の江戸における出版権を独占しました。
・好色物(恋愛)
・町人物(町民の生活)
・武家物(武士の生活)
を中心に描いていました。
また、元日には、宝船の版画を販売。
枕の下に宝船図を敷いて寝ると、縁起のいい夢を見られる。
元日の夜が近付くと、宝船図を買う客が鱗形屋に殺到しました。
蔦屋重三郎に吉原細見の編集を任せる
対して、蔦屋重三郎は本のレンタル、販売を行っていました。
ある日、店に並ぶ鱗形屋の吉原細見に注目します。
吉原細見は吉原の遊女や店を紹介する冊子。
吉原で生まれ、引手茶屋を経営する叔父に育てられた蔦屋重三郎は遊郭を知り尽くしていました。
そこで、鱗形屋孫兵衛に、
吉原細見の編集を任せてほしい。
と頼み、編集者として活躍しました。
黄表紙の基「金々先生栄花夢」を出版する
吉原細見や草双紙(挿絵入りの本)を中心に扱っていた鱗形屋孫兵衛。
安永4年(1775年)には、恋川春町の「金々先生栄花夢」を刊行します。
当時、草双紙は、
・赤本:子どもを対象としたおとぎ話、大人も好む武勇伝
・青本と黒本:歌舞伎や人形浄瑠璃の演目を題材にした話、伝記、ノンフィクション
のジャンルに分かれていて、表紙の色で判別できるようになっていました。
「金々先生栄花夢」はどのジャンルにも属さず、後に流行する黄表紙の基となりました。
鱗形屋孫兵衛が経営破綻した理由
宝船図、金々先生栄花夢を大ヒットさせた鱗形屋孫兵衛。
でも、この後、鱗形屋孫兵衛は経営破綻してしまいます。
上方の版元の刊行した実用書を無断で改題し販売する
「金々先生栄花夢」が大ヒットした後…
鱗形屋の手代が上方(大坂)の版元の刊行した実用書を無断で改題し販売してしまいます。
・手代は家財没収、江戸から十里四方追放
・鱗形屋孫兵衛は監督責任を問われて、二十貫文の罰金
を言い渡されました。
蔦屋重三郎に吉原細見の市場を奪われる
鱗形屋孫兵衛はその年の吉原細見を刊行できなくなってしまいました。
そこで、吉原細見の編集を任されていた蔦屋重三郎自ら吉原細見の刊行を手がけます。
蔦屋重三郎のネットワークをふんだんに活かした吉原細見「籬の花」は大好評。
蔦屋重三郎は書店のオーナーから版元に事業を拡大しました。
鱗形屋孫兵衛は安永5年(1776年)に吉原細見を刊行したものの、市場は既に蔦屋重三郎の独占状態。
鱗形屋孫兵衛は経営を盛り返すことができず、急速に衰退しました。
まとめ:鱗形屋孫兵衛は蔦屋重三郎に市場を奪われて衰退
蔦屋重三郎のライバル・鱗形屋孫兵衛が経営破綻した理由を紹介しました。
江戸の地本問屋だった鱗形屋孫兵衛は不祥事を起こして処罰されます。
そして、吉原細見に強い蔦屋重三郎に遅れをとってしまいました。
蔦屋重三郎に吉原細見の編集を任せた鱗形屋孫兵衛。
鱗形屋孫兵衛がいなければ、蔦屋重三郎の大出世はなかったかもしれませんね。
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