蔦屋重三郎の出版した遊女評判記・一目千本、籬の花がヒットした理由

江戸の地本問屋・鱗形屋孫兵衛から吉原細見の編集を任された蔦屋重三郎。
その後、蔦屋重三郎は遊女評判記「一目千本」を出版し、その才能をみせつけます。

後に、鱗形屋孫兵衛が不祥事を起こすと、蔦屋重三郎は「籬の花」を出版し、吉原細見の市場を独占しました。

蔦屋重三郎出版した遊女評判記「一目千本」、「籬の花」が大ヒットした理由を紹介します。

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蔦屋重三郎の出版した遊女評判記「一目千本」が大ヒットした理由

蔦屋重三郎が安永3年(1774年)7月出版した「一目千本 花すまひ」。
「一目千本」は蔦屋重三郎が最初に出版した本です。

一目千本とは?

一目千本とは、千本の桜を一目で見渡せる場所を指します。
本のタイトルどおり、「一目千本」には、菊や牡丹、水仙や桔梗、ユリなど、さまざまな花が花器に生けられている絵が掲載されていました。

老中を務めていた田沼意次の改革により、経済は活性化され、庶民も贅沢な暮らしを送っていました。

庶民のたしなみの一つが挿花。
オシャレな花器に花を一輪だけ生ける挿花が流行していました。

蔦屋重三郎はこの流行に注目し、大人気絵師・北尾重政を起用しました。

一目千本が大ヒットした理由

でも、蔦屋重三郎の出版した「一目千本」は花を紹介する本ではありません。

よく見ると、花一本一本に遊女の名前が書かれています。
「一目千本」は吉原遊郭で働く遊女を花に例えて紹介する本・吉原細見だったんです。

「一目千本」は上下2巻の70ページで、手軽に持ち運べるサイズで、外観、中身共に趣向を凝らした一冊。
でも、書店には並びませんでした。

「一目千本」を手に入れられる場所は、吉原にある一流の妓楼だけ。
しかも、自由に手に取ることはできず、遊女からプレゼントしてもらうしかありませんでした。

町人
遊女

「一目千本」は吉原も認める一流の遊び人の証だったんです。

妓楼で遊ばない人々は「一目千本」の噂を聞いて興味津々。
関心が十分に集まったところで、蔦屋重三郎は「一目千本」をついに販売します。

ただ、妓楼で遊女からプレゼントされる「一目千本」とは異なり、生花だけを掲載したものでした。
つまり、販売された「一目千本」には、遊女の名前が載っていなかったんです。

「一目千本」に関心を抱いた人々は、

商人
町人

何故、このような本が人気なんだろう?

と不思議に思ったかもしれません。

でも、蔦屋重三郎のこの販売戦略は吉原の繁栄に大きく貢献しました。

「一目千本」は受注生産で、蔦屋重三郎は赤字を出すことなく、名を揚げました。

蔦屋重三郎の出版した遊女評判記「籬の花」が大ヒットした理由

蔦屋重三郎が安永4年(1775年)秋に出版したのが「籬の花(まがきのはな)」です。

籬の花とは?

この年鱗形屋が不祥事を起こし、吉原細見を刊行できなくなります。
そこで、蔦屋重三郎は吉原細見「籬の花」を出版しました。

籬の花が大ヒットした理由

「籬の花」は従来の吉原細見より少し大きいサイズで、1ページを上下2つに分けて遊女を紹介しました。

そのため、従来の吉原細見の半分の薄さになり、印刷代、紙代を節約することができました。

蔦屋重三郎は浮いた費用を価格に反映して販売。
安価で手に入れられる「籬の花」は大ヒットしました。

吉原をよく知っている客は遊廓にすぐ向かわず、引手茶屋に寄って休憩します。
そして、吉原細見を開いて遊女を選ぶと、引手茶屋が手はずを整え、遊女を遊廓から呼び寄せてくれます。

町人
遊女

遊廓から引手茶屋までの道はまさに花魁道中。
選ばれた遊女はもちろん、遊女を待つ客の評価も上がります。

吉原細見は男っぷりを上げるのに欠かせないツールだったんですね。

まとめ:蔦屋重三郎の粋で客を第一に考えた販売戦略がカギ

蔦屋重三郎出版した遊女評判記「一目千本」、「籬の花」が大ヒットした理由を紹介しました。

「一目千本」は遊女からしか手に入れられず、一流の遊び人の証として人気を博しました。
また、コストカットに注力した「籬の花」はリーズナブルな価格で販売したため、大勢が手に入れることができました。

蔦屋重三郎のこの販売戦略は、当時珍しくオリジナリティ溢れるものだったんですね。

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