・小山城の戦い
・利根川の戦い
・杉本城の戦い
と、足利勢(北朝勢)に次々勝利した北畠顕家ら南朝勢。
北畠顕家を美濃国で待ち受けていたのは、猛将・土岐頼遠でした。
北畠顕家と土岐頼遠の青野原の戦いの経過と結果、その後を紹介します。
青野原の戦いの経過と結果
青野原の戦いとは、
① 北畠顕家率いる奥州軍(南朝勢)
② 土岐頼遠率いる足利勢(北朝勢)
の間で行われた戦いを指します。
延元3年/暦応元年(1338年)1月20日から1月29日の10日間にわたって行われました。
経過
① 利根川の戦い、杉本城の戦いで足利勢を撃破
② 新田義貞の次男・徳寿丸(後の新田義興)、北条時行が軍を率いて合流
したため、奥州軍の兵は10万人にも及びました。
1月2日に鎌倉を出発した北畠顕家は、遠江国で後醍醐天皇の第4皇子・宗良親王と合流して美濃国に到着。
当然、北畠顕家の動きは足利尊氏の耳にも届きます。
杉本城の戦いで三浦半島に落ち延びた上杉憲顕が西進を開始しました。
ただ、足利勢の多くは北陸で勢力を拡大する新田義貞軍に苦戦し、身動きを取れませんでした。
そのため、兵10万人の奥州軍に対して、足利勢は兵8万人で戦に挑むことになりました。
奥州軍の先陣・伊達行朝に、南部師行、北畠顕家、宗良親王を奉じた弟・北畠顕信が続きます。
後詰めは徳寿丸、結城宗広、北条時行でした。
先陣が木曽川に着いた時、後詰めの兵は熱田を進むほど、奥州軍の陣形はのび切っていました。
土岐頼遠の主張により、足利勢は美濃国で奥州軍を迎撃すると決めました。
でも、肝心の誰がどのように迎え撃つのかが決まりません。
そこで、足利軍は5つの部隊を編成し、くじ引きで陣立ての順番を決めました。
① 小笠原貞宗・芳賀禅可
② 高重茂
③ 今川範国・三浦高継
④ 上杉憲顕
⑤ 土岐頼遠・桃井直常
となりました。
結果
一番を引いた小笠原貞宗・芳賀禅可軍2000人は伊達行朝軍3000人と木曽川で戦います。
兵の数が多かったこと、騎馬隊で一気に攻めたことにより、伊達行朝が圧勝しました。
二番を引いた高重茂軍3000人は北条時行軍5000人と墨俣川で戦います。
北条時行が墨俣川を渡ろうとした時、高重茂が側面から陣形ののび切った北条軍を攻撃。
結城宗広率いる軍が北条軍に加わり、高重茂と戦いました。
奥州軍は高軍をなんとか破りましたが、続いて、三番を引いた今川範国・三浦高継軍が襲い掛かります。
結城軍、北条軍、伊達軍が急きょ集まり、今川軍は退却。
奥州軍は勝利を重ねるものの、一気に進軍することができず、兵の体力は徐々に消耗していました。
翌日青野原に入った奥州軍を目がけて、四番を引いた上杉憲顕が襲い掛かりました。
被害の比較的少ない徳寿丸、宇都宮公綱の軍が上杉憲顕を迎撃します。
すると、五番を引いた土岐頼遠・桃井直常軍1000人が手薄になった北畠顕家本隊を襲撃。
手薄になっていたとはいえ、本隊は6万人の大軍です。
戦は激しさを極めましたが、圧倒的な兵力差を前に土岐頼遠・桃井直常軍は敗北。
この時、北畠顕家は土岐頼遠の顔面を斬り、重傷を負わせます。
土岐頼遠は家臣に守られて退却し、奥州軍は大きな被害を受けながらも勝利しました。
後に、京で光厳上皇の牛車に礼を尽くさず、上皇から咎められます。
すると、
院?犬と言ったか?犬なら射よ!
と怒って、牛舎に矢を放ち、逃げる公家を見て笑いました。
更に、牛車を倒したため、足利尊氏の怒りに触れ、六条河原で斬首されてしまいました。
青野原の戦いのその後
足利勢に勝利したものの、
① 長距離の進軍による兵糧不足
② 度重なる戦の疲弊
から、北畠顕家は京への進軍を諦めます。
① 北陸に向かい、新田義貞と合流する
② 父・北畠親房の拠点・伊勢国に向かう
の2つでした。
豊島河原合戦や杉本城の戦いなどを経て、北畠顕家と新田義貞は不仲になっていました。
北畠顕家は伊勢国に向かい、態勢を立て直すことにしました。
まとめ:猛将も若きエリート武将には勝てず…
北畠顕家と土岐頼遠の青野原の戦いの経過と結果、その後を紹介しました。
合戦後、土岐頼遠は一時行方をくらましたといわれています。
重傷より、北畠顕家に重傷を負わされたことがショックだったのかもしれませんね。
北畠顕家は大河ドラマ「太平記」に登場しています。
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