楠木正成の長男・楠木正行と足利義詮の墓が隣にある理由

南朝方の楠木正成と北朝方の足利尊氏の間で行われた湊川の戦い。

二人は敵対していたにも関わらず、楠木正成の長男・正行の墓は足利尊氏の三男・義詮の墓の隣にあります。

楠木正成長男・正行の生涯
楠木正行足利義詮にある理由
を紹介します。

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楠木正成の長男・正行の生涯

楠木正成の長男として誕生した楠木正行。

楠木正行の生まれ年は判っていませんが、
① 正和5年(1316年)
② 元応2年(1320年)
③ 元亨3年(1323年)
④ 嘉暦元年(1326年)
のいずれかに生まれたといわれています。

楠木正行がどのような幼少期を過ごしたかは判りません。

河内国司・守護を兼任しながら、北朝方との戦いに備える

楠木正行の名前が史料に登場するのは、楠木正成の亡くなった建武3年(1336年)から4年が経った暦応3年(1340年)のこと。

楠木正成の跡継ぎとして、河内国司と河内守護を兼任しました。
軍師・楠木正成の血を引く楠木正行は軍事的な政務を行いつつも、自らが戦うことはありませんでした。

何故、楠木正行は自ら戦わなかったのでしょうか。

楠木正行は、
① 軍事力の蓄積
② 全国の南朝勢との連携強化
に努め、来るべき戦に備えていたんです。

その証拠として、大和国を拠点に北朝勢と戦っていた開住西阿を支援していたといわれています。

細川顕氏と山名時氏・大友氏泰に連勝する

楠木正行が自ら剣を振ったのは、貞和3年(1347年)9月17日。

① 河内国藤井寺
② 河内国教興寺
で、幕府方の河内・和泉守護である細川顕氏軍と戦いました。

楠木正行にとって、細川軍との戦は初めての大戦でしたが、無事勝利をおさめました。

幕府は山名時氏と大友氏泰を援軍として送り、両軍は住吉・天王寺で衝突。
楠木正行を警戒していた幕府軍はあっという間に撃破されました。

四条畷の戦いで高師直・師泰兄弟に敗北する

追い込まれた幕府はついに、高師直・師泰兄弟を起用します。
高師直・師泰兄弟といえば、花将軍・北畠顕家を倒した足利尊氏の側近。

高師直・師泰兄弟と戦う前、楠木正行は死を覚悟し、如意輪堂の板壁に過去帳として名前を書き残したといわれています。

貞和4年(1348年)1月5日、追い詰められた楠木正行は四条畷の戦いで自害しました。

楠木正行と足利義詮の墓が隣にある理由

宝筐院(京都市右京区)には、
① 五輪石塔(墓碑銘:小楠公・楠木正行)
② 三層石塔(墓碑銘:足利尊氏の三男で室町幕府第二代将軍・足利義詮)
が二基一体並んで建っています。

墓所の門には、楠木家の家紋・菊水と足利家の家紋・二つ引両が掲げられています。

紹介したように、楠木正行は父・楠木正成の意志を継いで南朝に仕えました。

武士
武士

つまり、楠木正行と北朝方の足利義詮は敵。

にも関わらず、何故、二人の墓は隣にあるのでしょうか。

楠木正行と足利義詮は同じ僧に帰依していたから

楠木正行と足利義詮は宝筐院の僧・黙庵周諭に帰依していました。

黙庵周諭は四条畷の戦いで討ち取られた楠木正行の首級を宝筐院に葬りました。
一方の足利義詮は黙庵周諭を心から尊敬していて、自らの死後は宝筐院での供養を希望していました。

足利義詮が楠木正行を慕っていたから

後醍醐天皇に一緒に仕えていた楠木正成と足利尊氏。
後に二人は敵対することになりましたが、お互いを認め、尊敬し合っていました。

そのため、足利尊氏は、

足利尊氏
足利尊氏

(足利義詮の)墓は楠木正行の墓の隣に建てるように。

と遺言を残したといわれています。

楠木正行と足利義詮も敵対していましたが、足利義詮も楠木正行の人柄を慕っていました。
足利義詮は足利尊氏の遺言に喜んで従いました。

といっても、足利家の菩提寺は浄妙寺(神奈川県鎌倉市)。
託された家族や家臣も、菩提寺以外の寺に埋葬することにはためらいがあります。

そこで、五輪石塔の隣に足利義詮銘の三層石塔を建て、足利尊氏と足利義詮の遺言に従いました。

まとめ:楠木氏と足利氏には、敵も味方もなかった!

楠木正成長男・正行の生涯
楠木正行足利義詮にある理由
を紹介しました。

足利尊氏の側近である高師直・師泰兄弟に敗北した楠木正行。
敵対して異なる道を歩んでも、楠木正成と足利尊氏、楠木正行と足利義詮はお互いを尊敬し合っていました。

あの世で、楠木正行と足利義詮は戦話に花を咲かせているかもしれませんね。
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