後醍醐天皇の倒幕運動をけん制していた六波羅探題。
その六波羅探題を攻略したのは、鎌倉幕府から派遣された足利尊氏でした。
足利尊氏が鎌倉幕府を裏切った4つの理由と六波羅探題陥落の経過を紹介します。
足利尊氏が鎌倉幕府を裏切った4つの理由
足利尊氏が鎌倉幕府を裏切った理由は4つあります。
北条氏に従うことに疑問を抱いていた
鎌倉幕府最後の執権・北条高時は、
① 田楽(田楽能)
② 闘犬(犬合わせ)
に明け暮れ、政務は停滞していました。
足利尊氏を含む有力武士が北条氏に従うことに疑問を抱くのは当たり前でした。
喪中に討伐を命じられた
足利尊氏の父は元弘元年(1331年)9月に亡くなりました。
足利尊氏は父の喪に服しているにも関わらず、後醍醐天皇を討伐するよう命じられ、北条高時を恨んでいました。
北条氏の仕打ちに不満を抱いていた
北条氏と姻戚関係を築いていた足利氏は、準一門としての待遇を受けていました。
ところが、足利氏の力を恐れるあまり、北条氏は足利氏に大きな経済的要求を行ってきました。
足利尊氏はもちろん、足利氏は北条氏の仕打ちに不満を抱いていました。
祖先が源氏であることを誇りに思っていた
北条高時は北条時政の子孫。
対して、足利尊氏の祖先は源氏。
北条氏は源氏に仕えることで栄えた氏族です。
![足利尊氏](https://blotabi.net/wp-content/uploads/2024/02/足利尊氏.jpg)
足利氏の立場が上なのに、北条氏に仕えなければいけないなんて…
と、足利尊氏は悔しい想いを抱いていました。
元弘3年(1333年)1月、後醍醐天皇の第3皇子・護良親王は潜伏先の吉野から討幕の令旨を発しました。
令旨の中で、護良親王は北条高時を「伊豆国在庁時政子孫高時法師」と呼んでいます。
足利尊氏は護良親王の令旨に影響を受けたかもしれませんね。
六波羅探題陥落の経過
正慶2年(1333年)2月、後醍醐天皇は隠岐国を脱出。
伯耆国の豪族・名和長年の助けを借りて、船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)に行宮を築きました。
焦った北条高時は、名越高家と足利尊氏に大軍を預けて上洛させました。
鎌倉を出発してから20日後、足利尊氏は京都に到着。
六波羅探題は援軍(足利勢)を喜んで迎えました。
ところが、この10日後。
久我畷の戦い(京都市伏見区)で、名越高家は赤松則村家臣・佐用範家に討ち取られてしまいました。
すると、足利尊氏は所領のある丹波国篠村(京都府亀岡市)で討幕を誓い、六波羅探題に向かいます。
六波羅探題の攻略は鎌倉幕府から戦の最前線基地を奪うことと同じでした。
足利尊氏は2万人の兵を率いていましたが、六波羅探題に到着する頃には5万人にまで膨れ上がります。
後醍醐天皇の側近・千種忠顕勢が足利勢と赤松勢に加わり、六波羅探題はあっという間に陥落しました。
![おゆう](https://blotabi.net/wp-content/uploads/2021/05/icon4.jpg)
当時、六波羅探題は北方を北条仲時が、南方を北条時益が務めていました。
敗北すると悟った二人は光厳天皇と後伏見上皇、花園上皇一行を連れて脱出します。
ところが、行く手を野伏に阻まれ、北条時益は山科四宮河原で討たれました。
北条仲時は天皇・上皇一行と共に近江国にたどり着きますが、このまま鎌倉に帰還するわけにはいきません。
六波羅探題が陥落した翌月、鎌倉幕府は滅亡しました。
まとめ:北条氏に対する怒りが足利尊氏を動かした!
足利尊氏が鎌倉幕府を裏切った4つの理由と六波羅探題陥落の経過を紹介しました。
① 北条氏に従うことに疑問を抱いていた
② 喪中に討伐を命じられた
③ 北条氏の仕打ちに不満を抱いていた
④ 祖先が源氏であることを誇りに思っていた
ことから、足利尊氏の北条氏に対する怒りが爆発。
後醍醐天皇の討伐に向かうとみせかけて、六波羅探題を攻略しました。
足利尊氏が裏切ったのは、鎌倉幕府ではなく、北条氏だったともいえるのではないでしょうか。
足利尊氏は大河ドラマ「太平記」に登場しています。
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