足利尊氏が六波羅探題を攻略した後、新田義貞は鎌倉幕府に攻撃を開始します。
何故、新田義貞は幕府に反旗を翻したのでしょうか。
新田義貞が鎌倉幕府を裏切った理由と倒幕の経過を紹介します。
新田義貞が鎌倉幕府を裏切った理由
新田義貞が鎌倉幕府を裏切った理由は2つあります。
足利氏を厚遇する幕府を恨んでいた
足利尊氏と新田義貞が同族関係(河内源氏)にあることは有名ですよね。
ただ、足利氏に比べて、新田氏は北条得宗家と折り合いが悪く、北条氏から冷遇されていました。
というのも、新田氏8代目当主・新田政義が幕府に反抗的な態度をとってしまったためです。
新田政義の行動は子孫に遺恨を残します。
一方、足利尊氏をはじめ、足利氏は代々北条家から正室を迎え、北条家と姻戚関係を築いてきました。
源氏嫡流のプライドをもっていた新田義貞は、
① 厚遇される足利尊氏に対抗意識
② 幕府に恨み
を抱いていました。
幕府の討伐対象になってしまった
後醍醐天皇勢との長引く戦で、財政難に陥っていた幕府。
幕府は新田義貞とその所領に期限付きで大きな税負担をかけます。
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新田義貞の所領には裕福な商人が多く、法外な税をかけても納税できると思ったからです。
新田義貞はもちろん、民は幕府のやり方に納得できません。
すると、幕府の徴税使・紀出雲介親連、黒沼彦四郎入道は有無を言わさず、税を徴収し始めました。
民は新田義貞に助けを求め、新田義貞は二人を捕らえて斬りました。
徴税使を斬ったことで、新田義貞は幕府から謀反人として討伐対象になります。
新田義貞は自分の身と民を守るために挙兵せざるを得なくなりました。
新田義貞の倒幕の経過
元弘3年(1332年)2月、幕府は楠木正成を追討するべく、大軍を河内国に派遣します。
この時、新田義貞は大番衆として、京の警備にあたっていました。
赤坂城の戦いで楠木正成は自害したものだと思っていた幕府。
次こそ、楠木正成を確実に討たなければいけません。
新田義貞は急遽新田一族を含む部隊の指揮をとって、河内国に向かうことになりました。
3月、護良親王は倒幕を促す綸旨を全国に発しました。
綸旨を受け取った新田義貞は病気を理由に千早城から撤退し、上野国に戻りました。
上野国に戻って一ヶ月が経った頃、紹介したように、新田義貞は幕府から大きな税負担を強いられます。
5月8日、新田義貞は生品明神(群馬県太田市)で倒幕の決意を示しました。
この時、新田軍は9000人にまで膨れ上がりました。
利根川を渡り、武蔵国に入ったところで、鎌倉を脱出した足利義詮と出会います。
足利義詮と合流したことで、各地から武士が新田軍に加わり、新田軍はあっという間に20万人を超えました。
15日、一時は敗走するも、新田軍は分倍河原(東京都府中市)で北条泰家を撃破。
新田軍の連戦連勝、足利尊氏による六波羅探題の陥落によって、武士が新田義貞のもとに集まりました。
鎌倉に到着した新田義貞は、18日に極楽寺切通、巨福呂坂、化粧坂の三方向から攻撃を開始。
19日には、大館宗氏・江田行義軍が極楽寺切通を破りました。
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御家人だった新田義貞にとって、鎌倉は庭のようなもの。
21日には、稲村ヶ崎の干潟から鎌倉に入り、新田軍は幕府を前後から挟み撃ちしました。
翌日の22日には、得宗・北条高時をはじめとした北条氏、幕府の主要メンバーが東勝寺に集まり自害。
こうして、生品明神で討幕の決意を示してからわずか2週間で、新田義貞と鎌倉幕府の戦いは決着がつきました。
まとめ:新田義貞は足利尊氏の子と協力して倒幕した!
新田義貞が鎌倉幕府を裏切った理由と倒幕の経過を紹介しました。
① 足利氏を厚遇する幕府を恨んでいた
② 幕府の討伐対象になってしまった
ため、新田義貞は幕府に反旗を翻しました。
足利義詮と合流し、足利氏と一緒に倒幕を果たした新田義貞。
新田義貞の功績は足利尊氏の功績に隠れ、倒幕後も足利氏との確執に苦悩することになります。
新田義貞は大河ドラマ「太平記」に登場しています。
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