陳を建国して2年後に崩御した武帝の後を継いで即位したのは、武帝の甥・陳蒨でした。
一般的には、皇帝の皇子が跡を継ぐもの。
にも関わらず、何故、武帝の皇子ではなく、甥が後を継いだのでしょうか。
武帝(陳霸先)の皇子ではなく、甥・文帝(陳蒨)が即位した理由を、文帝の生涯と共に紹介します。
文帝(陳蒨)ってどんな人?
文帝は522年生まれで、陳霸先の兄・陳道談の第一皇子として誕生しました。
名前は陳蒨(ちんせん)といいます。
呉興郡(浙江省湖州市)太守となった後、553年には、信武将軍の位を授けられ、監南徐州(江蘇省揚州市)となりました。
王僧弁の討伐に貢献し、侍中となる
554年、陳霸先と共に北伐を行い、活躍した陳蒨は陳霸先から戦力として期待されるようになりました。
555年、梁の第5代皇帝・敬帝(蕭方智)を擁立したい陳霸先と第6代皇帝・閔帝(蕭淵明)を擁立したい王僧弁の対立が激化し、陳霸先は王僧弁を討つ覚悟を決めました。
陳霸先が王僧弁を討つにあたって、脅威となるのが王僧弁の親戚です。
梁の第4代皇帝・元帝(蕭繹)のもとで大活躍した王僧弁の一族は、各地で要職に就いていました。
まず、陳霸先が注目したのが、王僧弁の娘婿で呉興郡太守を務めている杜龕(とがん)。
陳蒨の故郷が呉興郡だったため、陳蒨は故郷に帰り、戦いの準備を整えました。
陳蒨は杜龕を討つことに無事成功。
功績を認められた陳蒨は、使持節・都督会稽等十郡諸軍事・宣毅将軍・会稽郡(浙江省紹興市)太守に任命されました。
即位する
559年6月、武帝が崩御し、武帝の妻・章皇后の命を受けて、陳蒨は第2代皇帝・文帝として即位しました。
文帝は武帝の行えなかった政策に早速取りかかりました。
まず、北周と和平を結んで、外交に力を入れる一方で、使者を送って北斉の侵攻を防ぎました。
また、陳国内の独立勢力を討って、軍事力を高めました。
その他、賦役を減免したり、奴婢を解放したりして国内の安定に努めました。
陳霸先の皇子ではなく、甥・陳蒨が即位した理由
紹介したように、皇帝が崩御すると、崩御した皇帝の皇子が後を継いで即位するのが一般的です。
でも、武帝(陳霸先)の後を継いだのは、甥である文帝(陳蒨)でした。
武帝には、陳克、陳立、陳権、陳昌の4人の皇子がいました。
上の3人の皇子・陳克、陳立、陳権は幼くして亡くなり、生きていたのは第4皇子・陳昌ただ一人でした。
ところが、陳昌は武帝が仕えていた梁にも、武帝が建国した陳にもいませんでした。
陳昌は武帝と共に梁の第4代皇帝・元帝に仕えていましたが、554年に西魏が江陵を陥落し、元帝が殺されると、陳昌は西魏に捕らえられて連行されました。
西魏から北周に移り変わっても、武帝が陳を建国しても、陳昌が武帝のもとへ送り返されることはありませんでした。
陳昌は武帝の正当な後継者ですが、陳にいない陳昌が武帝の後を継ぐことはできません。
そう分かっていた章皇后は陳蒨を擁立して、文帝として即位させたんですね。
まとめ
武帝(陳霸先)の皇子ではなく、甥・文帝(陳蒨)が即位した理由を、文帝の生涯と共に紹介しました。
武帝には4人の皇子がいましたが、生きていたのは第4皇子・陳昌ただ一人。
その陳昌は西魏に捕らえられ、解放されなかったため、陳昌が武帝の後を継ぐことはできませんでした。
武帝の後を継いだ文帝は、即位後すぐに外交、防衛に取りかかり、また、国内の安定に努め、天嘉の治と呼ばれる治世を築きました。
武帝に長年仕えてきた文帝は、武帝が建国した陳を強国にしたい気持ちが強かったのではないでしょうか。
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