武帝(陳霸先)は梁を滅ぼし、南朝最後の王朝・陳を建国しましたが、陳の領土は南朝の4王朝の中で最小でした。
武帝(陳霸先)の建てた国・陳が弱小だった背景を、武帝の生涯と共に紹介します。
武帝(陳霸先)ってどんな人?
陳霸先は503年生まれで、呉興郡(浙江省湖州市)の出身。
宋の初代皇帝・武帝(劉裕)の行った土断により、呉興郡が本籍地となりました。
父・陳文賛と母・董氏の間に誕生しました。
蕭暎のもとで功績を上げる
陳霸先の初めての勤め先は、なんと村役場。
村役場で勤めた後、油の倉庫番として働くなど、戦いとは無縁の仕事に就いていました。
その後、陳霸先は運命を大きく変える人物と出会いました。
広州刺史・蕭暎です。
蕭暎は梁の初代皇帝・武帝(蕭衍)の弟。
蕭暎に仕えることになった陳霸先は、蕭暎が功績を上げて昇進すると、陳霸先も昇進し、中直兵参軍という役職に任命されました。
陳霸先は自ら兵を募り、広州で次々と手柄をあげました。
549年、同じく蕭暎に仕えていた元景仲が蕭暎を暗殺し、蕭暎の軍を奪いました。
陳霸先は元景仲を討ち、武帝の従弟・蕭景の子どもである蕭勃に蕭暎の軍を任せました。
自ら蕭暎の軍を率いるのではなく、蕭勃に軍を率いさせたことで陳霸先の株はアップ。
実際に軍の実権を握ったのは陳霸先でした。
李賁を討つ
541年、交州(広西チワン族自治区)刺史・蕭諮に不満を抱いた李賁は反乱を起こし、蕭諮を討った李賁は交州と徳州(ベトナム北部)を制圧して、万春を建国しました。
蕭諮に代わって交州刺史に任命された陳霸先は李賁を討ち、また、その残党を討伐して、李賁の勢力を弱めました。
王僧弁と共に侯景の乱を鎮圧する
548年8月、侯景の乱が勃発すると、梁の第4代皇帝・元帝(蕭繹)に仕えていた大都督・王僧弁と共に侯景を撃破しました。
功績を称えられた陳霸先は征北将軍となりました。
王僧弁を討つ
554年、西魏の侵攻を受け、元帝が崩御すると、元帝の第9皇子・蕭方智を擁立して、第5代皇帝・敬帝として即位させました。
ところが、北斉は長年捕らえていた初代皇帝・武帝(蕭衍)の甥・蕭淵明を即位させるように要求しました。
王僧弁は北斉の要求を受け入れ、敬帝を退位させて、蕭淵明を第6代皇帝・閔帝として即位させました。
敬帝を擁立した陳霸先と閔帝を擁立した王僧弁は対立するようになり、555年、陳霸先は王僧弁を討ちました。
陳霸先は閔帝を廃して、敬帝を再び即位させました。
陳を建国して即位する
557年、陳霸先は敬帝に譲位するよう迫り、禅譲を受けた陳霸先は陳を建国して、初代皇帝・武帝として即位しました。
梁を滅ぼし、陳を建国した武帝。
でも、王僧弁の残党が反乱を起こし、その鎮圧に追われたため、武帝は国力を高めたり、国内を安定したりするための政策を行えないまま、559年8月に57歳で崩御しました。
武帝(陳霸先)の建てた国・陳が弱小だった背景
420年から589年まで、宋、斉、梁、陳の4王朝が続いた南朝。
この4王朝の中で、領土が最も小さかったのが陳です。
紹介したように、陳を建国したものの、王僧弁の残党が反乱を起こし、その鎮圧に追われたため、武帝は陳の国力を高めるような政策を行えませんでした。
でも、陳の領土が最も小さかったのは、武帝が陳の国力を高めるような政策を行えなかったからだけではありません。
宋では、第3代皇帝・文帝(劉義隆)の治世下で、北魏と領土を奪い合うようになり、また、皇族間で混乱が生じ、国力が衰退しました。
斉では、初代皇帝・高帝(蕭道成)、第2代皇帝・武帝(蕭賾)の治世は比較的安定していましたが、第3代皇帝・(蕭昭業)、第4代皇帝・(蕭昭文)が相次いで廃された後に殺され、第5代皇帝・明帝(蕭鸞)は皇族を次々と殺し、皇族の権力はもちろん、国家を弱体化させました。
梁では、初代皇帝・武帝(蕭衍)が仏教を過度に信仰したり、侯景の乱が勃発したり、皇子間で対立が生じたりして、武帝が崩御した後の梁は滅亡状態にありました。
つまり、陳が建国される前から、宋、斉、梁の3王朝にわたって、南朝の領土が徐々に小さくなっていたんです。
4王朝とも建康(江蘇省南京市)を都としていて、宋では北魏との国境である青州(江蘇省連雲港市)から建康まで330kmの距離がありました。
ところが、陳では、北斉と建康が目と鼻の先。
陳に限らず、どのような国であっても、都が陥落すれば、滅亡する可能性が高まります。
陳は建国当初から危険にさらされた状態でした。
まとめ
武帝(陳霸先)の建てた国・陳が弱小だった背景を、武帝の生涯と共に紹介しました。
村役場や油の倉庫で働くなど、戦いとは無縁の仕事に就いていた陳霸先は、広州刺史・蕭暎と出会い、蕭暎のもとで次々と手柄をあげました。
その後、王僧弁と共に梁を弱体化させた侯景を撃破し、王僧弁を討ち、敬帝から禅譲を受けて陳を建国しました。
ところが、宋、斉、梁の3王朝にわたって南朝の領土は徐々に削れていたため、北斉と陳の都・建康は目と鼻の先となり、陳は建国当初から危険にさらされた状態でした。
陳を建国してすぐに、武帝が国力を高めるような政策を行っていたとしても、陳の滅亡は免れなかったのかもしれませんね。
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