北魏で行われた子貴母死制は残酷な制度として有名ですが、何故、子貴母死制が誕生したのでしょうか。
北魏で行われた子貴母死制の概要、誕生した背景と歴史的意義を紹介します。
子貴母死制とは?
子貴母死の読み方はしきぼし。
子が貴(とうと)ければ母死すという意味で、北魏では、皇子が皇太子に冊立されるとその生母は殺されました。
子貴母死制は北魏の初代皇帝・道武帝(拓跋珪)が作りました。
子貴母死制が誕生した背景
子貴母死制は道武帝が作ったと紹介しましたが、第1皇子・拓跋嗣(後の第2代皇帝・明元帝)の生母・劉貴人を殺したのが始まりです。
大事な後継ぎを産んでくれた生母。
皇子に同じく、大事にされて当たり前のはずです。
なのに、何故、道武帝は拓跋嗣の生母を殺したのでしょうか。
また、何故、北魏では皇太子の生母を殺すことが慣習となったのでしょうか。
道武帝が拓跋嗣の生母・劉貴人を殺したのは、劉貴人の一族の専横を恐れたからです。
道武帝が即位する前、拓跋氏を含む遊牧民には、母強子立(母が強ければ子が立つ)、つまり、生母の権力が大きければ子どもが大成する傾向がありました。
つまり、子どもの運命は生母の権力に左右されていたんです。
産んだ皇子が皇太子に冊立され、そして、皇帝に即位すると、生母の権力は更に拡大します。
道武帝は劉貴人が権力を手にし、一族が要職に就いて実権を握ることを恐れて、拓跋嗣を皇太子に冊立したタイミングで劉貴人を殺しました。
皇太子、皇帝の生母とその一族が権力を手にすることを恐れた道武帝の気持ちは分かりますが、だからといって、殺さなくてもいいですよね。
流刑や幽閉など、権力を手にさせない方法はいろいろあります。
道武帝が劉貴人を殺すことにした理由は、前漢の時代にまで遡ります。
前94年、前漢の第7代皇帝・武帝(劉徹)の側室・鉤弋(こうよく)夫人(趙氏)は第6皇子・劉弗陵(後の第8代皇帝・昭帝)を出産しました。
前87年、劉弗陵が皇太子に冊立されると、武帝の命令によって、鉤弋夫人は殺されました。
鉤弋夫人が殺された理由は、前漢の初代皇帝・高祖(劉邦)の妻である呂雉一族のような外戚の専横を未然に防ぎたかったからです。
武帝の行った子貴母死は制度化、慣習化されていませんでしたが、生母の力を消滅させたい道武帝にとって好都合な出来事。
道武帝は武帝の行った子貴母死を前例とし、自らの行為を正当化して、子貴母死制を作りました。
子貴母死制の歴史的意義
父・道武帝により、母・劉貴人を失った拓跋嗣。
拓跋嗣は明元帝として即位すると、劉貴人に皇后を追贈しました。
北魏では、子貴母死制によって亡くなった生母が8人いますが、皆皇后を追贈されました。
つまり、皇帝の生母には、即位後に皇后を追贈するのが一般的となったんです。
道武帝には慕容皇后という正妻がいます。
にも関わらず、何故、明元帝は劉貴人に皇后を追贈したのでしょうか。
その理由は、道武帝が高祖母・竇氏に神元皇后を追贈したからです。
道武帝の高祖父(ひいひいおじいちゃん)・拓跋力微は拓跋内部の混乱に巻き込まれ、同じ鮮卑の一族である没鹿回廊を頼りました。
拓跋力微に期待した没鹿回廊の権力者・竇賓は、拓跋力微と娘・竇氏を結婚させました。
ところが、竇賓が亡くなると、拓跋力微は妻・竇氏と義兄弟を殺し、没鹿回廊で実権を握りました。
拓跋力微は竇氏を殺したものの離縁せず、竇氏は拓跋力微の妻と記録されました。
記録を見た道武帝は即位後に、拓跋力微に神元皇帝を、竇氏に神元皇后を追贈し、北魏で編纂された魏書において、竇氏は皇后として名を連ねることとなりました。
明元帝は道武帝の行動を参考にして、劉貴人に皇后を追贈したんですね。
まとめ
北魏で行われた子貴母死制の概要、誕生した背景と歴史的意義を紹介しました。
皇子が皇太子に冊立されると、その生母が殺されるという子貴母死制は、北魏の初代皇帝・道武帝(拓跋珪)が生母の一族の専横を恐れたことから始まりました。
そして、子貴母死制で生母を失った第2代皇帝・明元帝(拓跋嗣)によって、亡くなった生母に皇后を追贈するのが一般的となりました。
側室は後継ぎとなる皇子を産むことが求められた時代。
にも関わらず、後継ぎを産んだら殺されるなんて残酷ですね。
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