【北魏】道武帝の敵を討った明元帝(拓跋嗣)ってどんな人?

北魏の初代皇帝・道武帝(拓跋珪)は第1皇子・拓跋嗣(後の第2代皇帝・明元帝)を授かりましたが、親子関係は良くありませんでした。
また、拓跋嗣の后妃と第2皇女・始平公主の関係は複雑でした。

明元帝(拓跋嗣)の生涯、第2皇女・始平公主の夫を紹介します。

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明元帝(拓跋嗣)ってどんな人?

明元帝は392年生まれで、北魏の初代皇帝・道武帝(拓跋珪)と宣穆劉皇后(劉貴人)の間に、第1皇子として誕生しました。
名前は拓跋嗣といいます。

403年、相国、車騎大将軍となり、斉王に封じられました。

母・劉貴人を亡くす

拓跋氏には、皇子が後継ぎ(皇太子)に冊立されることが決まると、生母は自害するという風習・子貴母死制がありました。
409年7月、拓跋嗣が皇太子に冊立される前に、劉貴人は亡くなりました。

母を亡くし、拓跋氏の風習を恨んだ拓跋嗣は道武帝に反抗して家出しました。

即位する

409年10月、道武帝が第2皇子・拓跋紹に暗殺されると、拓跋嗣は拓跋紹とその母・賀夫人、協力した宦官を殺して、第2代皇帝・明元帝として即位しました。

即位後、明元帝は母・劉貴人を宣穆劉皇后に追封しました。

明元帝は漢人出身の崔宏、崔浩親子を登用し、意見を積極的に聞き入れて、首都・平城(山西省大同市)周辺の安定、国力の充実に注力しました。

また、漢族を登用して政治に参画させ、漢族の文化の理解に努めました。

柔然を征討する

410年、柔然を征討するよう、長孫嵩に命じました。

道武帝も柔然を征討しましたが、この時に大活躍したのが長孫嵩でした。

柔然の戦法を熟知していた長孫嵩に柔然征討を命じたものの、征討に手こずったため、明元帝自ら親征を行いました。
明元帝を恐れた柔然は逃走し、柔然の初代可汗・郁久閭社崙を死に追いやり、明元帝は勝利を収めました。

414年には、柔然が北魏の辺境に侵攻したため、明元帝は再び親征を行い、再び勝利を収めました。

宋を攻撃し、河南省一帯を支配下におく

422年、南朝・宋の初代皇帝・武帝(劉裕)が亡くなり、領土を拡大するチャンスだと判断した明元帝は黄河を渡って、青州(山東省一帯)、兗州(山東省済寧市)、豫州(河南省洛陽市)、司州(河南省洛陽市)を奪い、虎牢(河南省鄭州市)、許昌(河南省許昌市)を占領して、洛陽を含む河南省一帯を支配下におきました。

423年、疲労から病を患い、32歳で崩御しました。

第2皇女・始平公主の夫は誰?

始平公主の夫は夏の第2代皇帝・赫連昌です。

明元帝が崩御した後に即位した第3代皇帝・太武帝(拓跋燾・たくばつとう。明元帝の第1皇子)は、426年に夏を攻撃し、赫連昌を捕らえました。
太武帝は明元帝の第2皇女である妹・始平公主を赫連昌に嫁がせ、夏と姻戚関係を結びました。

おゆう
おゆう

ここで注目したいのが、明元帝の后妃です。

明元帝は赫貴人を側室に迎えていました。

すけさん
すけさん

赫貴人は夏の初代皇帝・武烈帝(赫連勃勃)の第3皇女。

始平公主の生母は判っていませんが、始平公主は父・明元帝の側室・赫貴人の兄弟と、つまり、義叔父と結婚したということになります。

おゆう
おゆう

現代の日本では4親等以上離れていなければ結婚できないので、3親等の叔父と結婚するというのは想像しにくいですね。

まとめ

明元帝(拓跋嗣)の生涯、第2皇女・始平公主の夫を紹介しました。

拓跋氏の風習により、母・劉貴人を失った明元帝。
明元帝は家出するなどして、道武帝に反抗的な態度をみせた一方で、道武帝が異母弟・拓跋紹に殺されると、拓跋紹を殺して敵を討ちました。
即位後は漢族の文化の理解に努めたり、柔然の征討に乗り出したりと、国内の安定、対外政策に注力しました。

道武帝に続き、32歳の若さで崩御した明元帝。
北魏の皇帝は短命な皇帝が多いのでしょうか。

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