中国史で暴君として有名な隋の第2代皇帝・煬帝(楊広)。
誰もが恐れる煬帝に最期まで刃向かったのが、妹・蘭陵公主(楊阿五)です。
煬帝に背いて夫・柳述との愛を貫いた蘭陵公主(楊阿五)の生涯を紹介します。
柳述に嫁ぐ
蘭陵公主は573年生まれで、隋の初代皇帝・文帝(楊堅)と妻・文献皇后(独孤伽羅)の間に第5皇女として誕生しました。
名前は楊阿五といいます。
顔立ちが美しいうえに、本を読むことが大好きな蘭陵公主は、皇女の中でも特に可愛がられて育ちました。
蘭陵公主は鄖国公・王誼の子どもである王奉孝と結婚しましたが死別。
591年、18歳を迎えると、太子親衛・柳述と再婚しました。
蘭陵公主は柳述の両親に仕え、義両親が病を患うと自ら薬を煎じて飲ませました。
高官とは高い地位の官吏を指しますが、高官の暮らしと宮廷の暮らしには雲泥の差があります。
皇女であっても、高官に嫁げば、義両親に仕え、家事をしなければいけません。
家事をしたことのない皇女は義両親と良好な関係を築けず、結婚生活がうまくいかなくなり、愛人をつくるというケースもありました。
蘭陵公主は素敵な女性だったんですね。
柳述と離婚する
蘭陵公主と結婚してから、柳述は朝廷で更に活躍し、文帝に重用されるようになりました。
ところが、柳述を恨んでいる者がいました。
文帝の第2皇子・楊広(後の第2代皇帝・煬帝)です。
楊広は妻・蕭氏の弟・蕭瑒に嫁がせようと、蘭陵公主との仲を取り持っていたんです。
文帝も蘭陵公主を蕭瑒に嫁がせるつもりでしたが、結局、文帝は柳述に嫁がせ、面子を潰された楊広は柳述を恨みました。
恨む相手が違う…
604年、楊広は病を患っていた文帝を見舞いに、文帝の寝室を訪れました。
楊広の本当の目的は文帝の見舞いではなく、文帝の側室・宣華夫人。
楊広が宣華夫人に関係を迫ったと知った文帝は、第1皇子・楊勇を皇太子に冊立しようと、柳述を呼び出しました。
柳述が楊勇を皇太子に冊立する詔勅を作成するために退室すると、楊広は文帝を殺し、また、柳述に詔勅の偽造罪を着せました。
その後、楊広が第2代皇帝・煬帝として即位すると、煬帝は柳述への恨みを晴らすべく、柳述を嶺南に左遷しました。
恨んでいる柳述の妻であっても、煬帝にとって、蘭陵公主は大事な妹。
煬帝は蘭陵公主と柳述を離婚させました。
柳述と同じ墓に入りたいと願うも…
蘭陵公主は離婚を拒み、柳述と一緒に嶺南に行きたいと申し出ました。
もちろん、煬帝は蘭陵公主の申し出を受け入れませんでした。
蘭陵公主は「公主じゃなくなってもいい」と上奏しましたが、煬帝は蘭陵公主の上奏を受け入れず、蘭陵公主を「男性は柳述だけではないのに、どうして、柳述でなければいけないのか」と問い詰めました。
すると、蘭陵公主は「父(文帝)が柳述と結婚するように勧めました。もし、夫・柳述が罪を犯したなら、法に則って、妻として連坐しないと、父に顔向けできません」と答えました。
煬帝は蘭陵公主の決意が固いと感じましたが、蘭陵公主の願いは叶うことなく、32歳で亡くなりました。
煬帝は蘭陵公主の葬儀を行おうとしましたが、葬儀を行う直前に、柳述と同じ墓に入れてほしいという蘭陵公主の遺言が見つかりました。
煬帝は葬儀を急いで中止し、長安(陝西省西安市)の北にある洪瀆川に蘭陵公主を葬りました。
まとめ
煬帝に背いて夫・柳述との愛を貫いた蘭陵公主(楊阿五)の生涯を紹介しました。
王奉孝と死別した後、柳述に嫁いだ蘭陵公主は、煬帝によって柳述と引き離されてしまいました。
蘭陵公主は亡くなった後も柳述と一緒にいたいと願いましたが、煬帝は蘭陵公主の願いを叶えませんでした。
嶺南に左遷された柳述も蘭陵公主を想い続けていたかもしれませんね。
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