北畠顕家が足利勢に初めて敗北した般若坂の戦い!敗因は?

南北朝時代で最強の武将の一人に数えられる北畠顕家。
北畠顕家が初めて敗北した戦が、桃井直信・直常兄弟、高師直との般若坂の戦いです。

般若坂の戦い北畠顕家敗因を紹介します。

スポンサーリンク

北畠顕家が足利勢に初めて敗北した般若坂の戦い!

青野原の戦いで足利軍に勝利した北畠顕家率いる奥州軍(南朝勢)。

ただ、兵糧不足、兵の疲弊から、これ以上の進軍を諦め、伊勢国に向かいます。

北畠顕家
北畠顕家

伊勢国には、父・北畠親房がいて、
① 兵糧を調達できる
② 諸豪族の支援を得られる
見込みがあったからです。

北畠親房の協力によって、戦闘態勢を整えた奥州軍は伊勢国を出発。

延元3年/暦応元年(1338年)2月21日には、大和を占領しました。

ところが、このわずか一週間後、桃井直常・高師直ら率いる足利勢(北朝勢)が大和に進軍。
両軍は奈良のはずれの般若坂で衝突しました。

足利勢で先陣を切ったのは桃井直信・直常兄弟です。

桃井直常は利根川の戦い、青野原の戦いで、北畠顕家に敗北していました。
桃井直常にとって、この戦いは雪辱を晴らすチャンスでした。

決死の覚悟で突撃する桃井直信・直常軍に対して、奥州軍は迎撃する布陣をとりました。
兵の数が圧倒的に多い奥州軍は「積極的に攻めなくても勝てる」と思い込んでしまったんです。

奥州軍はあっという間に総崩れになりました。

この後、北畠顕家は義良親王を後醍醐天皇のもとに密かに送り、安全を確保しました。

北畠顕家を破った桃井直常は堂々と京に凱旋し、行賞に大きな期待を寄せました。
ところが、思うような褒美を与えられず、桃井直常は足利尊氏・直義兄弟を恨みました。

北畠顕家の敗因は?

紹介したように、奥州軍は兵の数が圧倒的に多く、有利な立場でした。

にも関わらず、何故、北畠顕家は兵の少ない足利勢に敗北したのでしょうか。

実は、般若坂の戦いでは、公家・洞院実世が奥州軍に加わっていました。

北畠顕家も同じ公家ですが、二人の大きな違いは戦闘経験。
戦闘経験の少ない公家衆が加勢したことで、指揮系統が乱れてしまいました。

北畠顕家
北畠顕家

奥州軍の兵の数が無駄に増えただけだったんです。

おまけに、公家衆は勝利を疑わず「前祝い」をするなど、気が緩んでいました。
お酒に酔った兵では、足利勢を迎撃できるわけがありません。

もちろん、北畠顕家は公家衆の加勢、軍の気の緩みに危機感を募らせていました。
でも、洞院実世は北畠顕家より官位が高く、北畠顕家は逆らうことができませんでした。

公家衆が加勢しなければ、戦の結果は変わっていたのかもしれません。

まとめ:公家衆の加勢で、北畠顕家は初めて敗北!

般若坂の戦い北畠顕家敗因を紹介しました。

足利勢に勝利し続けた北畠顕家にとって、般若坂の戦いは初めての敗北でした。
再び態勢を立て直すべく、北畠顕家は楠木正成の長男・楠木正行のいる河内国に向かいました。

北畠顕家は大河ドラマ「太平記」に登場しています。

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

タイトルとURLをコピーしました