慶長遣欧使節の副使として、ヨーロッパに渡った支倉常長。
名門出身ではない支倉常長が、何故副使に選ばれたのでしょうか。
中級武士だった支倉常長が慶長遣欧使節の副使に選ばれた3つの理由を紹介します。
中級武士だった支倉常長
支倉常長は元亀2年(1571年)生まれで、山口常成の次男として誕生しました。
伯父・支倉時正に跡継ぎが生まれなかったため、支倉常長は7歳で養子に出されます。
羽州置賜郡(山形県米沢市)に生まれた支倉常長は陸奥国柴田郡(宮城県柴田郡川崎町)に移り住みました。
支倉常長が主君・伊達政宗に仕え始めた時期は明確ではありません。
ただ、支倉常長が18歳を迎えた天正17年(1589年)3月には、既に家臣だったことが史料からうかがえます。
この年、支倉常長は支倉時正に従って相馬氏攻略に参戦。
① 争う氏家弾正と鳥島両氏の仲裁に説明役として派遣される
② 大崎葛西一揆で、真山継重のもとに先陣として派遣される
など、支倉常長は伊達政宗の使者として活躍しました。
文禄元年(1592年)に豊臣秀吉が行った文禄の役では、伊達政宗に従って参戦。
帰国後、支倉時正に実子・久成が生まれます。
支倉常長は跡継ぎになる必要がなくなりましたが、この時既に26歳。
山口家には戻らず、支倉常長は支倉家分家の初代当主となりました。
この後、支倉常長は松尾木工の娘と結婚し、嫡男・常頼と娘を授かります。
理由は判りませんが、妻と別れた後、
・松浦氏の娘と結婚して娘
・富塚重頼の娘との間に、次男・常道
を授かりました。
慶長13年(1608年)9月、家中知行割が行われます。
支倉常長は伊沢郡小山村(岩手県奥州市)に所領を与えられました。
支倉常長が慶長遣欧使節の副使に選ばれた3つの理由
支倉常長の生い立ちを紹介しましたが、お世辞にもパッとしませんよね。
何故、支倉常長は慶長遣欧使節の副使に選ばれたのでしょうか。
海外渡航歴があった
紹介したように、伊達政宗に従って、支倉常長は文禄の役に参戦しました。
つまり、支倉常長は朝鮮に渡っていたんです。
日本国内しか知らない家臣に比べて、海外渡航歴のあった支倉常長は副使にふさわしい人材でした。
斬首刑の代わりだった
支倉常長の父・山口常成と養父(伯父)・支倉時正は鍋丸事件を起こしました。
父は斬首に処され、養父は仙北に移封されます。
支倉常長も連坐して所領を取り上げられ、斬首に処される予定でした。
ところが、伊達政宗は支倉常長を副使に選び、斬首刑を免除します。
飛行機のない当時、船に乗ってスペインとローマに到達するのは至難の業。
☑ 航海中に苦汁を味わう
☑ 航海中に亡くなる
と予測できたことから、失ってもいい人材を選ばなければいけませんでした。
そこで、伊達政宗は斬首に処される予定だった支倉常長を副使に選びました。
伊達政宗から信頼されていた
家族が鍋丸事件を起こすまで、伊達政宗のもとで使者として活躍した支倉常長。
悪いことをしたのは家族で、支倉常長本人は何も悪いことをしていません。
支倉常長が任務を果たし、無事生きて帰国したら、伊達政宗は名誉回復の機会を与えるつもりだったのかもしれません。
まとめ:ヨーロッパ渡航は斬首刑の代わり!?
中級武士だった支倉常長が慶長遣欧使節の副使に選ばれた3つの理由を紹介しました。
伊達政宗のもと、使者として長年活躍した支倉常長は、
① 海外渡航歴があった
② 斬首刑に処される予定だった
③ 伊達政宗から信頼されていた
ことから、慶長遣欧使節の副使としてヨーロッパに渡りました。
斬首刑に処される予定がなければ、支倉常長が副使に選ばれることはなかったかもしれない。
そう考えると、支倉常長の人生は不思議なものですね。
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