徳川家康が豊臣秀吉の朝鮮出兵に駆り出されなかった理由

豊臣秀吉によって、文禄の役、慶長の役の二度にわたって行われた朝鮮出兵。

宇喜多秀家や小早川秀秋をはじめ、豊臣秀吉の名だたる家臣が朝鮮に渡りました。
そして、文禄の役には15万人を超える兵が、慶長の役には14万人を超える兵が参戦しました。

でも、徳川家康は一度も朝鮮に渡ることなく、また、家臣を派遣することもありませんでした。

徳川家康豊臣秀吉朝鮮出兵に駆り出されなかった理由を紹介します。

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徳川家康が文禄の役で朝鮮出兵しなかった理由

文禄の役は天正20年(1592年)4月から文禄2年(1593年)7月にかけて繰り広げられました。

文禄の役が勃発する2年前の天正18年(1590年)、豊臣秀吉と北条氏政・氏直親子間で小田原征伐(小田原合戦)が行われていました。

北条氏直に次女・督姫を嫁がせていたにも関わらず、徳川家康は豊臣秀吉側として参戦。

小田原征伐の功績を称えられた徳川家康は、その褒美として、関東に移封されました。

三河国岡崎城で生まれ、今川家の人質として駿府で育ち、三河国、遠江国、駿河国の3ヶ国の領主となった徳川家康にとって、関東は全く知らない土地。

徳川家康の力を恐れた豊臣秀吉による事実上の左遷だったのかもしれません。
でも、徳川家康は主君に逆らうことなく関東に移りました。

徳川家康が拠点に選んだ城は、移封される130年以上前の1457年(長禄元年)に太田道灌が築いた江戸城。

築城から130年以上経過した江戸城は、お世辞にも徳川家康にふさわしい城とは言えませんでした。
また、江戸の商業はすっかり衰退していました。

そのため、徳川家康は、
① 江戸城の修築と増築
② 城下町づくり
に取りかからなければいけませんでした。

三河国、遠江国、駿河国を泣く泣く手放した徳川家康は、「江戸を日本一の町に育て上げる」と張り切っていたに違いありません。

そんな徳川家康のもとに、豊臣秀吉から朝鮮出兵の要請がやってきました。

江戸城の修築と増築、城下町づくりには、人もお金も必要。
徳川家康は朝鮮出兵に人もお金も費やしたくありませんでした。

そこで、徳川家康は、

慣れない土地に移ったばかりで忙しく、朝鮮に渡ることはできない…

と言って遠回しに断ります。

でも、徳川家康は豊臣秀吉の家臣。
豊臣秀吉のご機嫌を損ねたら、北条氏が小田原征伐で滅ぼされたように、滅亡に追い込まれるかもしれません。

徳川家康は豊臣秀吉のご機嫌をとるべく、朝鮮出兵の前線基地・名護屋城まで出向いて陣を張りました。

豊臣秀吉の家臣が朝鮮で戦っている間、徳川家康は名護屋城から江戸に指示を出し、
① 江戸城の本丸、二ノ丸を修築し、西ノ丸、三ノ丸、吹上、北ノ丸を増築
② 塩の生産地・行徳(千葉県市川市)と江戸を繋ぐ運河・小名木川、道三堀を掘って、塩の輸送路を造設
しました。

朝鮮半島で和睦の交渉が進むと、徳川家康は「もう名護屋城にいる必要はない」と判断。
交渉の結果を待たず、徳川家康は19か月ぶりに江戸に戻りました。

徳川家康が慶長の役で朝鮮出兵しなかった理由

慶長の役は慶長2年(1597年)2月から慶長3年(1598年)8月にかけて繰り広げられました。

朝鮮半島で和睦の交渉が進んでいましたが、なんと交渉は決裂。
和睦することのできなかった豊臣秀吉は再出兵を決意しました。

ところが、文禄の役が行われている間に、
① 母・大政所が亡くなる
② 側室・淀殿との間に三男・豊臣秀頼を授かる
など、豊臣秀吉の身に大きな出来事が次々と起きていました。

豊臣秀頼を溺愛した豊臣秀吉は大坂から一歩も出ず、名護屋城に命令を出しました。
そのため、徳川家康は大坂城から西に出向く必要がありませんでした。

まとめ:朝鮮出兵は徳川家康の運命の分かれ道

徳川家康豊臣秀吉朝鮮出兵に駆り出されなかった理由を紹介しました。

徳川家康は江戸城と城下町の発展に尽力することを理由に、朝鮮出兵の要請を断りました。

豊臣秀吉の有力家臣は兵や資金を朝鮮出兵につぎ込みましたが、徳川家康は家臣を朝鮮に渡らせることがなかったため、家臣を失わずに、また、お金を使わずに済みました。
朝鮮出兵に駆り出されなかったことが、徳川家康と他の戦国大名の力の差に繋がったのかもしれませんね。

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