洒落本や浮世絵などを次々と送り出し、江戸のプロデューサーと呼ばれた蔦屋重三郎。
ところが、41歳で出版物が摘発され、蔦屋重三郎は処罰されてしまいます。
処罰を受けた蔦屋重三郎の晩年と死因、妻や子孫を紹介します。
処罰を受けた蔦屋重三郎の晩年と死因!
天明7年(1787年)、老中・松平定信による寛政の改革が開始。
風紀の取り締まりが厳しくなり、戯作や浮世絵は風紀を乱すとみなされてしまいます。
寛政3年(1791年)、蔦屋重三郎は山東京伝の洒落本と黄表紙を4冊ずつ販売。
また、喜多川歌麿の狂歌入絵本「百千鳥」を販売します。
享保の改革で好色本は禁止されていました。
にも関わらず、吉原や深川の遊廓を舞台とした作品を扱ったんです。
更に、これらの本を「教訓読本」と書かれた袋に入れて販売。
蔦屋重三郎は罰金を科され、また、山東京伝は手鎖50日の処罰を受けます。
寛政の改革によって、蔦屋重三郎は商売の規模を縮小する他ありませんでした。
寛政5年(1973年)夏、松平定信が辞職。
蔦屋重三郎は喜多川歌麿の描く艶っぽい浮世絵(美人画)を売り出し、事業を盛り返します。
ところが、喜多川歌麿は他の絵本問屋と通じ、蔦屋重三郎から離れてしまいました。
喜多川歌麿の美人画を販売できなくなった蔦屋重三郎は歌舞伎役者絵に注目。
迫力のある役者絵を扱って、しっとりとした美人画に対抗しようとしたんです。
寛政6年(1794年)には、東洲斎写楽の役者絵を一気に28枚出版。
その後も、東洲斎写楽の作品を100点以上発表し、江戸の文化発展に貢献しました。
ところが、10ヶ月間という短い活動期間を経て、東洲斎写楽は突然姿を消します。
以前より、脚気を患っていた蔦屋重三郎。
東洲斎写楽が姿を消して、気力を失ったのかもしれません。
寛政9年(1797年)、脚気を患っていた蔦屋重三郎は48歳で亡くなりました。
当時、脚気は「江戸わずらい」と呼ばれていました。
江戸時代以前の食事は玄米が中心でしたが、江戸時代以降の食事は白米が中心となります。
精米する過程でビタミンB1が取り除かれ、ビタミンB1不足が原因で脚気を患う人々が多かったんです。
版元として大成した蔦屋重三郎の食事も白米中心だったのではないでしょうか。
2代目は享和2年(1802年)に葛飾北斎の狂歌本「潮来絶句集」を出版した際、装丁が華美だったため処罰されました。
蔦屋重三郎に妻はいた?
書籍商として独立した安永6年(1777年)頃、蔦屋重三郎は結婚しました。
蔦屋重三郎の妻は浄瑠璃の稽古本や往来物(学習書)を扱う伊賀屋の娘。
読み書きやそろばんが得意で、本が大好きでした。
生まれ年や名前などは詳しく判っていませんが、蔦屋重三郎の仕事の良き理解者だったに違いありません。
蔦屋重三郎の子孫は?
数々の芸術作品を世に送り出した蔦屋重三郎。
蔦屋重三郎の血を引く子孫がいたのかどうか、気になりますよね。
残念ながら、蔦屋重三郎に子どもがいたのかどうかは判っていません。
TSUTAYAの創業者は子孫ではなく、蔦屋重三郎とは無関係です。
ただ、「蔦屋重三郎の子どもは版元として扱った作品一つ一つ」と言っても過言ではないかもしれませんね。
まとめ:粋な江戸っ子も晩年は静かだった…
処罰を受けた蔦屋重三郎の晩年と死因、妻や子孫を紹介しました。
蔦屋重三郎は江戸の文化発展に大きく貢献しましたが、東洲斎写楽を失って以降、静かな晩年を送りました。
それでも、作家や絵師、作品に囲まれて過ごした晩年は幸せだったのではないでしょうか。
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