五大院宗繁の裏切りがもたらした北条邦時の悲劇と自らの最期

鎌倉時代を代表する悪人・五大院宗繁。
五大院宗繁は甥・北条邦時を差し出し、代わりに褒美をもらおうとします。

五大院宗繁裏切りがもたらした北条邦時悲劇と自らの最期を紹介します。

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五大院宗繁の生涯

五大院宗繁は父・五大院太郎右衛門尉のもとに誕生しました。

五大院家は北条氏得宗家の有力な御内人。
鎌倉幕府第8代執権・北条時宗の異母弟・北条宗時に嫁いだ遠藤為俊の娘が北条宗時の死後、五大院左衛門尉に嫁いだとされています。

おゆう
おゆう

五大院左衛門尉は五大院宗繁、もしくは、五大院高頼だと推定されています。

もし、五大院左衛門尉が五大院宗繁だとすれば、五大院家は北条得宗家と血縁にあったことが判ります。

また、五大院宗繁の妹・常葉前は鎌倉幕府第14代執権・北条高時の側室でした。

常葉前は北条高時の長男・北条邦時を出産。
正室との間に子どもを授からなかったため、北条邦時は時期得宗として期待されます。

北条高時の長男の伯父となった五大院宗繁はますます重用されるようになりました。

五大院宗繁の裏切りがもたらした北条邦時の悲劇

五大院宗繁が悪名高いのは、敵に甥・北条邦時を差し出したからです。

北条邦時を託される

元弘の乱が勃発して2年後、新田義貞が鎌倉を攻め、鎌倉幕府が滅亡。

北条高時をはじめ、多くの北条一門が自害します。

北条高時には、北条邦時、次男・北条時行の2人の息子がいました。

子どもだけでも助けたいと思った北条高時は、
・北条邦時を五大院宗繁
・北条時行を諏訪頼重
に託します。

この時、「北条高時は『どのような手段を使っても二人を匿って守り、時が訪れたら立ち上がって、この恨みを和らげてほしい』と頼んだ」と「太平記」に記述されています。

北条邦時を差し出す

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の命令を受けた新田軍は北条の残党狩りを行います。

北条の残党を捕らえた者には、褒美が与えられる。

それを知った五大院宗繁は北条邦時を新田軍に突き出すことにしました。
元弘3年(1333年)5月27日夜、五大院宗繁は北条邦時を伊豆山(静岡県熱海市)に向かわせます。

そして、鎌倉にと留まっていた五大院宗繁は新田義貞の執事・船田義昌に、

武士
五大院宗繁

北条邦時は伊豆山に向かっている。

と密告しました。

翌日28日、北条邦時は伊豆山へ向かう途中の相模川で捕らえられ、29日に鎌倉で処刑されてしまいました。

五大院宗繁自らの最期

北条邦時の居場所を教えてくれたとはいえ、船田義昌は五大院宗繁に対して悪人の印象を抱きました。

もちろん、武士が主君を裏切るケースは少なくありませんでした。

でも、五大院氏は北条氏に代々仕えた身。
何代にもわたって面倒をみてくれた主君を裏切って褒美をもらう行為は不忠だったからです。

ましてや、五大院宗繁が売り飛ばしたのはまだ幼い甥。
味方についた五大院宗繁がいつ、誰を裏切るか分かりません。

また、五大院宗繁のこの悪行は世間を騒がせました。
五大院宗繁を家臣にしては、新田義貞の評判もガタ落ちです。

新田義貞は五大院宗繁を悪人として糾弾し、処刑すると決めました。
処刑を恐れた五大院宗繁は逃亡し、友人を訪ねます。

ところが、五大院宗繁の悪行は世間に既に広がっています。
五大院宗繁に救いの手を差し伸べる人は誰一人いませんでした。

「太平記」によると、五大院宗繁はげっそり痩せ細り、道端で餓死したと伝わっています。

まとめ:主君を裏切っても、新しい主君は得られなかった

五大院宗繁裏切りがもたらした北条邦時悲劇と自らの最期を紹介しました。

「太平記」は軍記物語で、必ずしも史実に基づいて書かれたものではありません。
史実は判りませんが、「太平記」の作者が五大院宗繁を嫌っていたのは確かかもしれませんね。
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