江戸時代に一世を風靡した喜多川歌麿。
喜多川歌麿の活躍は版元・蔦屋重三郎抜きには語れません。
浮世絵師・喜多川歌麿と版元・蔦屋重三郎の出会い、関係を紹介します。
浮世絵師・喜多川歌麿と版元・蔦屋重三郎の出会い
喜多川歌麿と蔦屋重三郎はどのように出会ったのか。
出会いの詳細は判っていません。
蔦屋重三郎は才能を秘める絵師を常に探していました。
起業して間もない頃、蔦屋重三郎は既に浮世絵師・北川重政と顔見知りでした。
そこで、蔦屋重三郎は北川重政を介して、弟子や友人と接触。
北川重政にとって喜多川歌麿は弟子ではありませんが、弟子と同じように可愛がる親しい間柄でした。
蔦屋重三郎と喜多川歌麿の出会いは、北川重政の仲介によるものだったかもしれません。
また、
・喜多川歌麿の生まれ年が宝暦3年(1753年)
・蔦屋重三郎の生まれ年が寛延3年(1750年)
であり、年齢が近かったことから、出会って間もなく意気投合したと想像できます。
そして、
・役者絵や武者絵、洒落本や黄表紙の挿絵を描き続けてきた喜多川歌麿
・日本橋通油町に出店した蔦屋重三郎
が大きな仕事を成功させたいと願っていたと想像できます。
浮世絵師・喜多川歌麿と版元・蔦屋重三郎の関係
出会った二人が一緒に仕事をするのは自然な流れ。
天明元年(1781年)、蔦屋重三郎は黄表紙「身貌大通神略縁起」の挿絵を描くよう依頼。
喜多川歌麿の才能を開花させるべく、蔦屋重三郎は喜多川歌麿を自宅に住まわせます。
また、喜多川歌麿が素晴らしい絵を描けるよう、蔦屋重三郎は身の回りの世話もしました。
翌年天明2年(1782年)には、喜多川歌麿が主催者となって劇作者や狂歌師、浮世絵師を招いて宴を開きます。
それは、仲介人・蔦屋重三郎がいたから。
蔦屋重三郎は大田南畝や恋川春町などの有名人に声をかけます。
喜多川歌麿の才能を開花させながら、喜多川歌麿を売り出していたんですね。
ところで、この頃の有名美人絵師は鳥居清長。
喜多川歌麿が段階的に成長できるよう、蔦屋重三郎は狂歌絵本の挿絵を任せます。
蔦屋重三郎のこの売り出し方は大成功をおさめ、喜多川歌麿は一躍有名人となりました。
寛政3年(1791年)、喜多川歌麿は美人大首絵を出版。
町美人や遊女の絵を次々と描きます。
蔦屋重三郎が吉原に通じていたことは、喜多川歌麿が美人画を描くにあたって大きな強みとなりました。
喜多川歌麿が実際に吉原を取材したと考えられます。
喜多川歌麿には、一般庶民が会うことのできない高位の遊女や妓楼の生活を取材する機会がありました。
これも、蔦屋重三郎が喜多川歌麿にそういった機会を与えていたと考えられます。
そして、遊女絵は妓楼の販促物にもなったため、妓楼から資金援助を受けられるケースも。
例えば、「青楼仁和嘉女芸者部 獅子 たま屋 おいと」。
こちらは、天明3年(1783年)8月の俄の祭りを題材とした作品。
遊客を妓楼に案内する引手茶屋「みなとや」で盃を持って休む女芸者や2人の禿が描かれています。
長提灯に大きく「いと」と書かれていることから、女芸者の名前がいとだと判ります。
寛政の改革で身上半減の処罰を受けた蔦屋重三郎にとって、
・喜多川歌麿の美人大首絵がヒットする
・妓楼から資金援助を受けられる
ことは嬉しかったに違いありません。
一方、蔦屋重三郎とタッグを組んだ喜多川歌麿は他の絵師とは一線を引く現実感溢れる絵を描くことができました。
まとめ:共通の知人を介して知り合った二人は同居人に!
浮世絵師・喜多川歌麿と版元・蔦屋重三郎の出会い、関係を紹介しました。
二人の出会いの詳細は判っていませんが、共通の知人・北川重政の仲介によるものだったと考えられます。
版元・蔦屋重三郎の喜多川歌麿の美人画を見れば、
・蔦屋重三郎がただ利益を得ようとしていたわけではない
・喜多川歌麿が新しい美人画を生み出そうとしていた
ことが分かります。
晩年は不仲説もささやかれる二人。
でも、お互い成長するために必要不可欠な存在だったのではないでしょうか。
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