鳥山検校が身請けした遊女・花の井(五代目瀬川)の悲運な人生

大富豪の鳥山検校に身請けされ、吉原から抜け出した花の井(五代目瀬川)。
ところが、そのわずか3年後、花の井の生活は一変します。

鳥山検校の生い立ち
遊女花の井五代目瀬川)の生い立ち
③ 鳥山検校が身請けした五代目瀬川の悲運人生
を紹介します。

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鳥山検校ってどんな人?

鳥山検校は江戸時代の安永年間(1772年から1781年)に、当道座のトップに立った盲人です。

商人
商人

当道座は室町時代に設置された男性盲人の自治組織。
当初は琵琶や箏曲、三弦などの演奏の他、鍼灸や導引などを行っていました。

当時の平家琵琶演奏家・明石覚一が当道座を組織化したのが始まり。
江戸時代には最下位の初心(無官)から最上位の検校まで、73もの階級に細分されたといわれています。

当道座の昇進の方法は、①業績をあげる、②お金を支払うの二つ。

琵琶や鍼灸などの業績が認められれば、時間はかかるものの昇進することができました。

ただ、時間をかけたくない、また、才能をもたない盲人のために、官位の売買も認められていました。
つまり、お金を支払えば、昇進することができたんです。

例えば、最下位から最上位の検校になるために必要な金額は719両だったといわれています。

また、検校は頭巾や杖、専用の衣装の所有が許されました。
持っている物や身に着けている物で、自らの地位を示すことができたんです。

当道座に所属している盲人はお金を稼ぎました。

商人
商人

幕府もまた
・当道座が琵琶や鍼灸などの事業を独占する

・高利貸しをする
ことを認めていました。

 

更に、幕府は当道座に対して税金を免除し、当道座を優遇しました。

幕臣の中で禄の薄い御家人や旗本に高利貸しをし、厳しく取り立てて暴利をむさぼったのが鳥山検校。
鳥山検校は一万五千両もの財産をなし、吉原で豪遊したといわれています。

遊女・花の井(五代目瀬川)ってどんな人?

花の井(五代目瀬川)は幼少期に親に捨てられ、吉原の遊郭「松葉屋」に引き取られました。

瀬川は松葉屋で代々受け継がれてきた家名です。

美貌はもちろん、教養の高さや芸事の腕前を評価された花の井は五代目「瀬川」を継承します。
瀬川を継承したことによって、花の井は吉原を代表する花魁として、江戸中に知れ渡りました。

鳥山検校が身請けした五代目瀬川の悲運な人生

高利貸しをし、厳しく取り立てて暴利をむさぼった鳥山検校。
安永4年(1775年)、鳥山検校は1400両を支払って、五代目瀬川を身請けします。

ところが、それからわずか3年後の安永7年(1778年)。
鳥山検校はこれまでの悪行を江戸幕府から咎められます。

全財産を没収され、また、江戸から追放されてしまいました。

鳥山検校は家財の他、20両のお金、1万5千両に及ぶ貸付金、複数の不動産を保有していました。
暴利をむさぼっていたことがよく分かります。

全てを突然失った五代目瀬川。

町人
町人

五代目瀬川の後日談には、
① 深川の武家・飯沼家に嫁いで、二人の子を授かった
その後、夫が亡くなったため、大工・結城屋八五郎と一緒になった
② 本所の御家人・青木健蔵に嫁いで、晩年は根岸に移り住んだ
などがありますが、詳しくは判っていません。

悪名高い鳥山検校と吉原で大人気の五代目瀬川の一件は、当時大注目を集めました。

そのため、
・安永8年(1779)に刊行された伊庭可笑の「姉二十一妹恋聟」
・安永7年(1778)に刊行された田螺金魚の「契情買虎之巻」
をはじめ、多くの本に二人のエピソードが取り入れられています。

まとめ:悪いことをしたら自分に跳ね返ってくる!

鳥山検校の生い立ち
遊女花の井五代目瀬川)の生い立ち
③ 鳥山検校が身請けした五代目瀬川の悲運人生
を紹介しました。

身請けされる、身請けされない。
五代目瀬川にとって、どちらが幸せだったのでしょうか。

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