室町幕府第13代将軍である兄・義輝が亡くなり、将軍就任を目指して還俗した足利義昭。
足利義昭が将軍に就任したのは、上洛を望んでから2年8ヶ月後のことでした。
足利義昭が上洛した時期となかなか上洛できなかった3つの理由を紹介します。
足利義昭が上洛したのはいつ?
足利義昭が室町幕府第15代将軍に就任したのは、永禄11年(1568年)10月18日です。
この22日前の9月26日、足利義昭は清水寺に入り、上洛を果たしました。
足利義昭がなかなか上洛できなかった3つの理由
兄弟間の跡継ぎ争いを避けるため、父・足利義晴によって出家させられた足利義昭。
永禄9年(1566年)2月17日、足利義昭は還俗し、将軍就任を目指しました。
足利義昭の上洛、将軍就任が実現するまで、2年8ヶ月もかかったことになります。
何故、足利義昭はすぐ上洛できなかったのでしょうか。
足利義昭がなかなか上洛できなかった理由は3つあります。
ライバル・足利義栄派の存在
第13代将軍に就任した足利義昭の兄・義輝。
ところが、永禄8年(1565年)5月19日、足利義輝は三好義継、三好三人衆に殺されてしまいます。
足利義昭の従兄弟・義栄を擁立するべく、三好氏の重臣・松永久秀は足利義昭を興福寺に幽閉しました。
足利義昭が興福寺から脱出すると、三好三人衆は各国の大名に手回し。
足利義昭が上洛できないように邪魔をしました。
有力大名の支援を受けられなかった
興福寺を脱出した足利義昭。
足利義昭は近江国の和田城から、各国の大名に御内書(手紙)を送ります。

御内書の内容は、
「軍とお金を出して、私を京に連れて行ってほしい」
ところが、当時大名は戦に追われ、足利義昭の上洛のために出せる軍がありません。
御内書を受け取った大名のほとんどは「戦に追われているため、軍を出せません」と返答しました。
このような返答を受けた足利義昭は「私が上洛するまで、戦を中止するように」と求めます。
足利義昭が間に入り、美濃の斎藤龍興と尾張の織田信長は和解。
織田信長は上洛に協力することを約束しました。
ところが、足利義昭を迎えに行こうと、織田信長が美濃国に入った時。
和解したはずの斎藤龍興が攻撃を仕掛けてきました(河野島の戦い)。
この戦いは足利義栄派の三好三人衆が斎藤龍興に手を回したのがきっかけだといわれています。
足利義栄の将軍就任
① 三好三人衆に邪魔をされる
② 各国の大名から協力を受けられない
など、足利義昭に不利な状況が続きました。
永禄11年(1568年)2月8日、足利義栄は第14代将軍に就任。
足利義昭は義栄に先を越されてしまいました。

なかなか上洛できなかった理由をまとめると、次のようになります。
まとめ:足利義栄を支持する三好三人衆が手強かった!
足利義昭が上洛した時期となかなか上洛できなかった3つの理由を紹介しました。
足利義昭が上洛したのは永禄11年(1568年)9月26日。
上洛、将軍就任まで2年8ヶ月もかかったのは、
① ライバル・足利義栄派(三好義継、三好三人衆)の存在があった
② 有力大名の支援を受けられなかった
③ 足利義栄が第14代将軍に就任した
からです。
全ての理由に三好三人衆が関係しています。
後に阿波へ逃げる三好三人衆がいかに強敵だったか、よくわかりますね。
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