
豊臣秀吉の三大城攻めの一つである鳥取城攻め。
豊臣秀吉は兵糧攻めを行いますが、その悲惨さから「鳥取の渇え殺し(飢え殺し)」とも呼ばれます。
鳥取城攻めが起きた理由と豊臣秀吉による兵糧攻めを紹介します。
鳥取城攻めとは?
鳥取城攻めは、
① 天正8年(1580年)に、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と毛利輝元家臣・山名豊国
② 天正9年(1581年)に、豊臣秀吉と毛利輝元家臣・吉川経家
の間で2回行われました。
こちらでは、第二次鳥取城攻めについて紹介します。
鳥取城攻めはなぜ起きた?
紹介したように、鳥取城攻めには、
① 天正8年(1580年)の第一次鳥取城攻め
② 天正9年(1581年)の第二次鳥取城攻め
があります。
第二次鳥取城攻めの原因は、第一次鳥取城攻めで山名氏が城を明け渡さなかったことにあります。
天正8年(1580年)に行われた第一次鳥取城攻めでは、城主・山名豊国が3ヶ月に及ぶ籠城戦を行いました。
家臣・森下道誉と中村春続は徹底抗戦を主張します。
ところが、山名豊国が単身で豊臣軍の陣中に出向き、降伏を申し出ました。

降伏を認めない森下道誉と中村春続によって、鳥取城は毛利氏に引き渡されます。
毛利氏から牛尾春重が鳥取城の城将として入りました。

その後、城将が何度か入れ替わり…
天正9年(1581年)3月、毛利輝元家臣・吉川経家が城主として入りました。
鳥取城ではなくなったけれども因幡守護だった山名豊国。
織田信長に密使を送り、鳥取城の状況について報告しようとしました。
ところが、その密使は毛利氏に捕らえられ、山名豊国が織田信長に内通していることがバレてしまいます。
身の危険を感じた山名豊国は豊臣秀吉のもとへ出奔。
織田信長に正式に仕えることになりました。
山名豊国以外の山名氏は毛利氏に引き続き仕えました。
城主が降伏したものの、鳥取城を手に入れられなかった豊臣秀吉は再び攻めることになりました。
豊臣秀吉は米を買い占めて兵糧攻め!
鳥取城には当時城兵1800人がいて、3ヶ月分の兵糧がありました。
豊臣秀吉は三木城の戦いで行った兵糧攻めを再び採用します。
三木城の戦いは1年10ヶ月にも及びました。
織田信長は「毛利氏の主力部隊が出陣するなら、自ら出陣する」と宣言します。
織田信長にとって、因幡一の城・鳥取城はなんとしても手に入れたい城でした。
短期間で鳥取城を攻略したい豊臣秀吉はまず、2万人の兵を率いて、鳥取城を囲むように城をつくりました。
そして、兵糧が早く枯渇するように、
① 鳥取城下に住む農民2000人を攻撃し、城内に追いやる
② 毛利軍の兵糧補給ルートを遮断する
③ 若狭の商人に命じて、因幡の米を高値で買い占める
などしました。
弟・豊臣秀長は天正5年(1577年)に但馬を攻略し、生野銀山を手に入れていました。
鳥取城に立て籠もる城兵は合計3800人となり、3ヶ月分の兵糧はあっという間になくなりました。
城内の家畜、植物を食べ尽くし、4ヶ月後には餓死者が続出します。
柵に手をかけ、「城から出してほしい」と豊臣軍に懇願する者もいました。
耐えかねた吉川経家は城兵の命を助けるという条件で、10月25日に切腹。
豊臣軍は損害をほとんど出さず、鳥取城攻めは終わりました。

開城後、豊臣秀吉によって、城兵にお粥が振る舞われます。
すると、多くの兵が間もなく命を落としてしまいました。
飢えに苦しんだ城兵は低栄養状態。
栄養の高い食べ物を突然大量に摂取してしまいました。
そのため、低血糖や電解質異常を起こしたのではないかと考えられています(リフィーディング症候群)。
まとめ:豊臣秀吉は徹底的に兵糧攻めし、軍事力を温存した
鳥取城攻めが起きた理由と豊臣秀吉による兵糧攻めを紹介しました。
豊臣秀吉は鳥取城を短期間で攻略しようと、
① 鳥取城下に住む農民2000人を攻撃し、城内に追いやる
② 毛利軍の兵糧補給ルートを遮断する
③ 若狭の商人に命じて、因幡の米を高値で買い占める
などして、兵糧を早く枯渇させました。
豊臣秀吉は鳥取城を包囲し続けただけで、次の戦に備えて、軍事力を温存しました。
一方、鳥取城の城兵の多くは飢餓に苦しんだため、「鳥取の渇え殺し(飢え殺し)」と呼ばれています。
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