足利義昭に正室がいないのはなぜ?織田信長が義尋を将軍にしたかった理由

室町幕府第15代将軍・足利義昭には嫡男がいます。
ただ、嫡男・義尋は側室との間に生まれた子で、正室の子ではありません。

実は、足利義昭には正室がいませんでした。

足利義昭正室いない理由
織田信長足利義尋将軍にしたかった理由
を紹介します。

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足利義昭に正室がいないのはなぜ?

足利義昭の父・義晴は近衛尚道の娘・慶寿院を正室に迎えました。
また、足利義昭の兄・義輝は近衛稙家の娘・大陽院を正室に迎えました。

近衛家は公家の五摂家筆頭で、将軍に妹や娘を嫁がせてきました。

ところが、足利義昭は近衛家から正室を迎えるどころか、結婚すらしていません。

将軍にも関わらず、正室を迎えないのは異例。
何故、足利義昭には正室がいないのでしょうか。

近衛家との関係が悪化したから

永禄8年(1565年)5月、永禄の変で三好義継や三好三人衆が足利義輝を殺害。
三好氏は将軍殺害の罪に問われることを恐れ、近衛前久を頼りました。

公家
公卿

近衛前久は殺された足利義輝の従兄弟ですが、正室の大陽院は姉にあたります。

大陽院は三好氏によって実家に送られていました。
そのため、近衛前久は大陽院を保護したことに感謝し、三好氏を擁護します。
また、三好氏が擁立する足利義栄の将軍就任をサポートしました。

足利義昭が兄を殺した近衛前久を許せないのは当たり前。
近衛前久と対立していた二条晴良も足利義昭に賛同します。

永禄11年(1568年)11月、足利義昭は関白・近衛前久を追放しました。

近衛前久が解任された関白には二条晴良が任命されます。

これにより、足利家と近衛家の関係は悪化。
正室を近衛家から迎えることができなくなりました。

公家
公卿

後に、近衛前久は信長包囲網(足利義昭参加前)に参加します。

これは織田信長への敵意が理由ではありません。

 

足利義昭や二条晴良に対抗するためだったといわれています。

織田信長との関係を重視したから

足利義昭の側室の中に、さこの方という女性がいます。

織田家家紋
織田信長

さこの方は、播磨国龍野城主・赤松政秀の娘で、織田信長の養女です。

武士の最高職・征夷大将軍になった足利義昭。
守護代である織田信長の養女を正室に迎えることは、身分の格差上できません。

足利義昭が正室を迎え、正室との間に子どもが誕生した場合。
織田信長との関係がこじれることは容易に想像できます。

そこで、正室を迎えず、側室・さこの方を実質的に正室扱いしました。

上洛をサポートし、畿内平定に努めた織田信長に感謝していた足利義昭。
足利義昭は身分の高い正室を迎えることより、織田信長との関係を重視していました。

織田信長が義尋を将軍にしたかった理由

元亀3年(1572年)、足利義昭とさこの方の間に、嫡男・義尋が誕生しました。

側室との間に誕生した子どもは庶子ですが、足利義昭には正室がいません。
そのため、足利義尋は跡継ぎとして育てられました。

ただ、足利義尋が誕生する3年前から、足利義昭と織田信長の関係は崩れていました。

元亀4年(1573年)7月には、槇島城の戦いが勃発。
敗北した足利義昭は二度と京に戻らないと約束し、足利義尋を人質として差し出しました。

織田信長によって、足利義尋はわずか一歳で出家させられました。
ただ、足利義尋は将軍の血を引く子どもで、織田信長にとって義理の孫にあたります。

足利義尋を出家させた一方で、織田信長は足利義尋を将軍に擁立したかったとも。

何故、織田信長は足利義尋を将軍に擁立したかったのでしょうか。

足利義昭を京から追放しても、信長包囲網は解けません。
足利義尋が将軍になれば、「祖父として、将軍をサポートする」という口実が生まれます。

織田家家紋
織田信長

将軍の権力を利用すれば…

足利義昭の権力を削げる、信長包囲網を打開できると考えていました。

ただ、朝廷は織田信長の権力の拡大を嫌がって、足利義尋の擁立を認めませんでした。

後に、足利義尋は興福寺の大僧正にまでなります。

興福寺は足利義昭が幼少期を過ごした場所であり、幽閉された場所でもあります。

足利義尋は後に還俗して、古市胤子と結婚。

① 慶長6年(1601年)生まれの実相院義尊
② 慶長9年(1604年)生まれの円満院常尊
の二人の子どもは大僧正になったといわれています。

慶長10年(1605年)、足利義尋は33歳の若さで亡くなります。
実相院義尊と円満院常尊は子どもをもうけなかったため、足利家嫡流は断絶しました。

足利義尋の死後、古市胤子は第107代天皇・後陽成天皇に嫁ぎ、3人の子を授かりました。

まとめ:足利義昭は嫡男・義尋を織田信長に差し出した!

足利義昭正室いない理由
織田信長足利義尋将軍にしたかった理由
を紹介しました。

足利義昭に正室がいないのは、近衛家との関係が悪化した、織田信長との関係を重視したからです。

織田信長の養女・さこの方との間に生まれた足利義尋は嫡男として育てられます。
ただ、足利義昭は義尋を人質として差し出し、京を去りました。

嫡男を置いて京を去った父・足利義昭はどのような気持ちだったのでしょうか。
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