陳の第2代皇帝・文帝(陳蒨)の後を継いで即位した廃帝。
ところが、廃帝は即位してわずか2年で廃されました。
廃帝を廃するように命令を下したのは、なんと廃帝の母・沈皇太后でした。
沈皇太后が廃帝(陳伯宗)を廃するように命令を下した理由を、廃帝の生涯と共に紹介します。
廃帝(陳伯宗)ってどんな人?
廃帝は554年生まれで、陳の第2代皇帝・文帝(陳蒨)と沈皇后(沈妙容)の間に第1皇子として誕生しました。
名前は陳伯宗といいます。
反乱が鎮圧されると、2人は解放され、沈皇后は陳伯宗を授かりました。
559年、文帝が即位すると、陳伯宗は皇太子に冊立されました。
即位する
566年、文帝が崩御すると、陳伯宗は第3代皇帝・廃帝として即位しました。
即位した当時、廃帝はわずか13歳。
文帝の遺詔により、文帝の弟で廃帝の叔父にあたる陳頊がサポートにあたりました。
サポートにあたったといっても、13歳の廃帝が主体となって政務を行うのは不可能です。
政務を行い、実権を握ったのは陳頊で、廃帝は名ばかりの皇帝でした。
わずか2年で廃され、殺される
主体となって政務を行わない廃帝より、実権を握っている陳頊が皇帝の座に就いたほうが、政務がスムーズに進みます。
568年、陳頊は廃帝を廃して、廃帝を臨海王に封じました。
570年4月、廃帝の報復を恐れた陳頊によって、廃帝は殺されました。
沈皇太后が廃帝を廃するように命令を下した理由
廃帝を廃したのは陳頊ですが、廃帝を廃するように命令を下したのは、廃帝の母・沈皇太后です。
文帝の遺詔には、廃帝をサポートするメンバーとして、陳頊の他、到仲挙や劉師知の名前が挙げられていました。
到仲挙や劉師知は宮中の華やかな行事の取りまとめに専念し、陳頊は300人もの臣下を率いて尚書省で政務にあたりました。
朝廷を離れている間に、陳頊が実権を握っていることに気付いた到仲挙や劉師知は、陳頊から実権を奪うべく、陳頊を揚州刺史として揚州に出向させ、朝廷から引き離そうと考えました。
ところが、到仲挙や劉師知の企みに気付いた陳頊は仮病を使って断りました。
また、廃帝や沈皇太后と密会を繰り返し、到仲挙や劉師知の悪口を吹き込みました。
沈皇太后を味方につけた陳頊は、沈皇太后の賛同を得て、到仲挙や劉師知を排除しました。
陳頊に協力して、到仲挙や劉師知を排除した沈皇太后。
到仲挙や劉師知が宮中の華やかな行事の取りまとめに専念していたとはいえ、2人がいなくなったことで、陳頊は実権をより強く握ってしまいました。
陳頊が廃帝から皇帝の座を奪うのではないかと恐れた沈皇太后は、陳頊を暗殺しようと、側近・張安国を陳頊のもとに送りました。
ところが、陳頊は張安国が挙兵の準備をしていることに気付き、張安国を処刑してしまいました。
首謀者が自分だとバレることを恐れた沈皇太后は、口封じのために、暗殺計画に関わった臣下を全員殺しました。
首謀者が沈皇太后だと、陳頊が気付いたのかどうかは分かりませんが、陳頊は沈皇太后を罪に問うことはありませんでした。
ただ、沈皇太后が暗殺計画の首謀者であることがバレれば、廃帝は連座して処刑されてしまうかもしれません。
また、実際に政務を行っている陳頊を差し置いて、廃帝が皇帝の座に就き続けていれば、廃帝は殺されるかもしれません。沈皇太后は母として廃帝を心配し、廃帝を廃するように命令を下したのではないでしょうか。
まとめ
沈皇太后が廃帝(陳伯宗)を廃するように命令を下した理由を、廃帝の生涯と共に紹介しました。
文帝の遺詔により、陳頊は廃帝をサポートして実権を握りました。
陳頊が廃帝から皇帝の座を奪うのではないかと恐れた沈皇太后は、陳頊の暗殺を企てましたが失敗し、暗殺計画に関わった臣下を殺して難を逃れました。
沈皇太后が暗殺計画の首謀者であることがバレれば、また、廃帝が皇帝の座に就き続けていれば、陳頊は怒って廃帝を殺すかもしれません。
廃帝を廃するように命令を下したのは、母である沈皇太后だからこその行動だったのではないでしょうか。
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