【陳】後主(陳叔宝)の代表作・玉樹後庭花とは?

557年に建国された南朝最後の王朝・陳。

南朝最後の皇帝・後主(陳叔宝)には、皇帝の器はありませんでしたが、詩文の才能はありました。

後主(陳叔宝)の生涯、代表作・玉樹後庭花を紹介します。

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後主ってどんな人?

後主は553年生まれで、陳の第4代皇帝・宣帝(陳頊)と柳皇后(柳敬言)の間に第1皇子として誕生しました。
名前は陳叔宝といいます。

皇太子となる

553年、陳叔宝は江陵(湖北省荊州市)で生まれましたが、554年、西魏が梁の第4代皇帝・元帝(蕭繹)の本拠地・江陵を攻め陥落すると、父・陳頊は西魏に捕らわれて関中(陝西省西安市)に連行されました。

陳叔宝は母・柳敬言と共に穣城で身柄を拘束されました。

坊っちゃん
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557年、陳霸先が陳を建国。

559年、第2代皇帝・文帝が即位すると、陳叔宝は解放され、初めて陳の地を踏むことができました。
568年、太子中庶子に任命された後、侍中を加授されました。

569年、陳頊が甥である第3代皇帝・廃帝(陳伯宗)を廃し、自ら宣帝として即位すると、陳叔宝は皇太子に冊立されました。

即位する

582年、宣帝が崩御しました。

宣帝の正当な後継者は第1皇子であり、皇太子に冊立された陳叔宝でしたが、陳叔宝の異母弟・陳叔陵が皇帝の座に就こうと、陳叔宝を暗殺しようとしました。

すけさん
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陳叔陵の攻撃を受けた陳叔宝は負傷しましたが、柳敬言や乳母の呉氏が陳叔宝を救い、右衛将軍・蕭摩訶が陳叔陵を討伐。

陳叔宝は第5代皇帝・後主として即位しました。

張貴妃の産んだ皇子を皇太子に冊立する

即位した後主は中書舎人・施文慶、沈客卿を重用し、朝廷を任せ、自身は尚書令・江総、陳暄、孔範と共に詩文を作って、宴会を度々開きました。

後主には正妻・沈皇后(沈婺華)がいましたが、沈皇后は子どもを授からず、側室・孫姫の産んだ第1皇子・陳胤を養子とし、皇太子に冊立していました。

孫姫は産後の肥立ちが悪く、産後すぐに亡くなりました。

側室・張貴妃(張麗華)を寵愛していた後主は、陳胤を廃して、張貴妃の産んだ第4皇子・陳深を皇太子に冊立しました。

朝廷を顧みない、後継者を寵愛した側室の要求で決めるといった後主の行動は、陳を衰退させてしまいました。

側室と井戸に隠れる

588年10月、北周、江陵を滅ぼした隋の初代皇帝・文帝(楊堅)は、南北を統一するべく、陳に攻め入りました。

おゆう
おゆう

文帝の第2皇子・楊広(後の煬帝)は51万8000人もの兵を率いて、陳を攻撃。

臣下は隋軍が侵攻していることを後主に報告しましたが、普段から朝廷を顧みず、宴会に明け暮れていた後主は的確な指示を出すことができませんでした。

隋軍が都に差し迫ると、陳の滅亡を覚悟した尚書僕射・袁憲は「梁の初代皇帝・武帝(蕭衍)が侯景を迎え入れたのと同じように、陛下も隋軍を堂々と迎え入れてください」と言いました。

お嬢ちゃん
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すると、後主は「私には策がある」と言って、張貴妃と側室・孔貴人の2人を連れて、井戸に隠れようとしました。

袁憲は後主を何度も諫め、後閤舎人・夏侯公韻は身体を張って井戸を覆いましたが、後主は夏侯公韻を押しのけて、井戸に隠れてしまいました。
後主の居所はすぐにバレ、隋軍に井戸から引きずり出されました。

後主と一緒に井戸に隠れた張貴妃と孔貴人も引きずり出され、国が滅亡しようとしているにも関わらず、隋軍は側室と一緒に井戸に隠れる後主に呆れ果てました。

文帝と一緒に過ごす

隋軍に捕らわれた後主は、隋の都・長安に護送されました。

敵国の皇帝を捕らえると、復讐を恐れて処刑するのが一般的でしたが、陳が滅び、隋に入った後も、後主は陳を自分の代で滅ぼしてしまったことを恥じることなく、お酒を飲み続けました。

おゆう
おゆう

復讐心を抱かないだろうと判断した文帝は後主を処刑しませんでした。

陳を滅ぼされたにも関わらず、後主は文帝が都を出る時には付き添い、また、お酒を一緒に酌み交わしました。

文帝はお酒をほどほどにするようにと注意しましたが、後主は聞き入れませんでした。

604年、後主は51歳で亡くなりました。

後主の代表作・玉樹後庭花とは?

後主には詩文の才能があり、宮体詩を用いた詩をたくさん詠みました。
後主が詠んだ詩の中で、最も有名なのが「玉樹後庭花」です。

【原文】
麗宇芳林對高閣
新粧艶質本傾城
映戸凝嬌乍不進
出帷含態笑相迎
妖姫臉似花含露
玉樹流光照後庭

原文を書き下すと、次のようになります。

【書き下し文】
麗宇 芳林 高閣に対し
新粧 艶質 本より傾城
戸に映るも嬌を凝らし 乍ち進まず
帷を出でて態を含み 笑いて相い迎う
妖姫 臉は花の露を含むに似たり
玉樹 光を流して後庭を照らす

書き下し文を分かりやすく意訳すると、次のようになります。

大きく美しい宮廷 芳しい木々 高く立派な建物
化粧を施した艶めかしい女性は 国を傾かせるほど美しい
戸に姿を映すと 身体をしならせて立ち止まる
帷(とばり)を出ると 色っぽく微笑んで迎えてくれる
艶めかしい女性の顔は 花の露を含んだようだ
今夜も美女が後宮を照らしている

後主が詠んだ「玉樹後庭花」から、陳がいかに華やかな国だったかが伝わりますね。

まとめ

後主(陳叔宝)の生涯、代表作・玉樹後庭花を紹介しました。

先祖が立てた陳を滅ぼされたにも関わらず、自らの行動を恥じなかった後主は、陳を滅ぼした隋の文帝から警戒されることもなく、文帝と共に各地を巡ったり、お酒を飲んだりして、隋で暮らしました。

陳の皇帝の中で最も楽しい晩年を過ごしたのではないでしょうか。

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