故事成語の多くは中国の古典発祥です。
激動の南北朝時代を生きた3人、楽昌公主、徐徳言、楊素から生まれた破鏡重円とその使い方を紹介します。
楽昌公主と徐徳言、楊素から生まれた破鏡重円
破鏡重円という故事成語はどのように誕生したのでしょうか。
楽昌公主と徐徳言が結婚する
楽昌公主は陳の第4代皇帝・宣帝(陳頊)の第1皇女で、謙虚ながらも、皇族としての威厳を保つ珍しい皇女でした。
礼儀正しく、特に文学に秀でていた楽昌公主は20歳を過ぎて、太子舎人・徐徳言と結婚。
皇室と姻戚関係を結ぶと、威張ったり、肩書きだけの要職に就いたりするものですが、徐徳言は政治的才能を更に発揮し、朝廷で活躍し続けました。
夫婦生活を大事にしつつ、お互いを尊重し合う楽昌公主と徐徳言は理想の夫婦でした。
離れ離れになる
588年10月、隋の初代皇帝・文帝(楊堅)とその第2皇子・楊広(後の第2代皇帝・煬帝)が軍を率いて、陳を侵攻しました。
陳には隋に太刀打ちできるだけの国力がなく、陳が間もなく混乱に陥ると判断した徐徳言は一枚の鏡を半分に割り、
「あなたほど美しい女性であれば、陳が滅んだら、隋の誰かのお嫁さんになってしまうでしょう。
私達は間もなく離れ離れになってしまうでしょうが、いつか再び会って、この半分の鏡を一枚の鏡に修復しましょう」
と言いました。
徐徳言は割れた鏡を自分達夫婦に例えたんですね。
楽昌公主は、
「落ち着いたら、正月の十五日に、この鏡を市場に持って行きます。
ご無事でしたら、市場で鏡を探してください。」
と言って、徐徳言と別れました。
割れた鏡が二人を繋ぐ
徐徳言が想像していたとおり、楽昌公主は隋の楊素の側室となりました。
楊素は楽昌公主をとても気に入り、楽昌公主の生活水準を落とさないよう気を配りました。
陳から隋に移っても、楊素のおかげで、楽昌公主は何不自由ない生活を送ることができましたが、楽昌公主は徐徳言との約束を覚えていました。
徐徳言は隋の都・長安にたどり着くと、正月の十五日に、市場に足を運びました。
すると、割れた鏡を売っている男性を発見。
徐徳言は割れた鏡を渡した女性について尋ねました。
男性から話を聞いて、鏡を渡した女性が楽昌公主だと確信した徐徳言は男性に経緯を説明し、割れた鏡をよく見せてもらいました。
そして、持っていた鏡と合わせたところ、ピッタリと当てはまり、一枚の鏡になりました。
楊素の気配りにより、再び一緒になる
徐徳言は持っていた鏡に手紙を書き、楽昌公主に渡すよう男性にお願いしました。
男性は楊素の家を訪ね、徐徳言から預かった鏡を渡しました。
鏡を受け取った楽昌公主は、徐徳言が生きていること、約束どおり、市場に足を運んで、鏡を探したことを知りました。
鏡を売っている男性のところに行けば、楽昌公主は徐徳言に会うことができます。
でも、楽昌公主は既に楊素の愛人。
元夫である徐徳言と会うことは許されません。
徐徳言と会う術を知っているのに会うことのできない楽昌公主は悲しみに暮れました。
楽昌公主が割れた鏡を大事にしていることを不思議に思った楊素は、楽昌公主に理由を尋ねました。
楽昌公主は鏡を差し出し、楊素は楽昌公主が既婚者だったことを初めて知りました。
楊素は徐徳言を呼び出しました。
楽昌公主の心を惑わせるような手紙を書き処刑されると思っていた徐徳言は、楊素のもとを恐る恐る訪ねました。
ところが、楊素は楽昌公主が既婚者だったと知らなかったこと、危うく夫婦の仲を壊すところだったことを謝罪。
楽昌公主は徐徳言のもとに戻り、楊素は手土産を持たせて、江南まで送り出しました。
使い方
紹介したように、離ればなれになった楽昌公主と徐徳言は(楊素の計らいによって)再び一緒になることができました。
破鏡重円という故事成語を使う機会はあまりないかもしれませんが、
・単身赴任や留学などで離れざるを得ない
・お互いに好きだけれども、周囲に反対されて別れざるを得ない
といった場面で、相手を、また、自分を励ます時に使えるのではないでしょうか。
まとめ
激動の南北朝時代を生きた3人、楽昌公主、徐徳言、楊素から生まれた破鏡重円とその使い方を紹介しました。
スマホはもちろん、メールアドレスや電話番号もない時代に、戦乱を経て、待ち合わせするなんて至難の業。
割れた鏡が夫婦の縁を繋ぐなんて、とてもロマンチックな話ですね。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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