北魏では、皇子が皇太子に冊立されるとその生母は殺されるという子貴母死制が設けられていましたが、子貴母死制を利用して権力を握ったのが馮太后です。
馮太后は子貴母死制をどのように利用したのでしょうか。
子貴母死制を利用した馮太后が後世に与えた影響を、馮太后の生涯と共に紹介します。
馮太后ってどんな人?
442年、馮太后は秦州(甘粛省天水市)刺史、雍州(陝西省宝鶏市)刺史を務めた父・馮朗と母・王氏の間に誕生しました。
馮朗が罪を犯して処刑されると、身寄りを亡くした馮太后は叔母・馮氏を頼って後宮に入りました。
皇后に冊立される
456年1月、第4代皇帝・文成帝(拓跋濬)の寵愛を受けた馮太后は14歳で貴人に冊立され、その後すぐに、皇后に冊立されました。
ところが、465年、文成帝が25歳の若さで崩御。
文成帝の後を追って、馮太后は火の中に自ら身を投じましたが、救出されて一命を取り止めました。
皇太后として献文帝をサポートする
文成帝の後を継いで、第1皇子・拓跋弘が第5代皇帝・献文帝として即位しました。
即位した時、献文帝はわずか12歳。
12歳の献文帝に朝廷を取りしきることは難しく、文成帝に仕えていた乙渾が丞相となって朝廷を取りしきり、実権を握りました。
やがて、国事は全て乙渾の決済が必要なまでに、乙渾の権力が拡大。
466年、馮太后は乙渾を処刑し、乙渾に代わって、献文帝をサポートしました。
太皇太后として孝文帝をサポートする
ところが、献文帝が成長して政務について理解できるようになると、馮太后と献文帝の間に対立が生じました。
471年、馮太后は献文帝を脅迫して、献文帝の第1皇子・拓跋宏に譲位させました。
拓跋宏が第6代皇帝・孝文帝として即位すると、馮太后は太皇太后として孝文帝をサポートして実権を握りました。
均田制や三長制をはじめ、馮太后はさまざまな改革に乗り出しましたが、晩年は寵臣や美男子だけを近くに置いて過ごし、490年、49歳で亡くなりました。
馮太后は子貴母死制を利用した
献文帝が即位した465年から亡くなる490年まで、25年間にわたって実権を握り続けた馮太后。
馮太后は献文帝と孝文帝の生母ではありません。
にも関わらず、何故、馮太后は権力をここまで拡大することができたのでしょうか。
ここで注目したいのが、献文帝の生母・李貴人が殺されたタイミングです。
北魏には、子貴母死制という皇子が皇太子に冊立されるとその生母は殺される慣習がありました。
李貴人は454年に献文帝を出産し、献文帝が皇太子に冊立された456年2月に殺されました。
紹介したように、456年1月に、馮太后は皇后に冊立されました。
子貴母死制によって殺されることが決まっていた李貴人は、皇后に冊立されない運命だったことが分かりますが、献文帝が皇太子に冊立される前に殺されるなんて、李貴人にとって理不尽ですよね。
実は、献文帝が皇太子に冊立される前に、李貴人を殺すよう命じた人物がいました。
文成帝の乳母・常太后です。
万が一、皇太子に冊立される前の献文帝の身に何かあれば、献文帝は皇太子に冊立されず、李貴人は殺されなくて済んだはずです。
にも関わらず、献文帝が皇太子に冊立される前に、常太后は李貴人を殺すよう命じました。
文成帝がその命令を許可したことから、常太后が大きな権力を手にしていたことが分かります。
生母に代わって皇太子を養育する乳母がどれほどの権力を手にすることができるのか。
馮太后は常太后を見てよく分かっていました。
朝廷を取りしきっていた乙渾を処刑し、乙渾に代わって、献文帝をサポートすることが、権力を手にするために最も有効な手段だと、馮太后は判断したんですね。
献文帝が即位して2年が経った467年、孝文帝が生まれ、469年、孝文帝は3歳で皇太子に冊立されました。
馮太后は子貴母死制によって生母・李夫人を失った孝文帝を自ら養育し、孝文帝を即位させることに成功しました。
483年、孝文帝の側室・李貴人が第1皇子・元恂を出産しました。
元恂が皇太子に冊立されていないにも関わらず、馮太后は「元恂が後継ぎになることは決まっているのだから、生母を殺すのは時間の問題」と言って、子貴母死制によって、李貴人は産後すぐに殺されました。
孝文帝が元恂に譲位しても、自分の権力が衰えないよう、馮太后は元恂を養育しました。
元々、子貴母死制は生母やその一族に権力を握らせないことを目的に誕生しました。
でも、馮太后は子貴母死制を利用して生母を排除し、皇族と自分の一族を結婚させ、皇室での地位を高めていきました。
子貴母死制を利用した馮太后が後世に与えた影響
馮太后は490年に亡くなりましたが、馮太后が亡くなっても、皇室で馮氏一族の権力が衰えることはありませんでした。
というのも、孝文帝は馮氏一族から4人もの后妃を迎えていたんです。
4人の后妃は皆、馮太后と同じように子貴母死制を利用し、後宮はもちろん、朝廷における馮氏一族の権力は拡大するばかりでした。
馮氏一族の権力拡大に終止符を打ったのは、意外にも、馮太后を慕っていた孝文帝です。
499年、病を患い死期が近いと悟った孝文帝は、馮氏一族を処刑する遺詔を書きました。
孝文帝が崩御した後、孝文帝の弟・元詳は遺詔にしたがって馮氏一族を処刑し、馮氏一族はあっという間に権力を失いました。
まとめ
子貴母死制を利用した馮太后が後世に与えた影響を、馮太后の生涯と共に紹介しました。
皇太子を養育する乳母がどれほどの権力を手にすることができるのかをよく分かっていた馮太后は、子貴母死制を利用して生母を殺し、皇太子を自ら養育しました。
権力を手にした馮太后は馮氏一族の女性を孝文帝の後宮に迎え、后妃に冊立することで、自分の死後も馮氏一族が権力を維持できるよう図りました。
則天武后が誕生する前から、頭の切れる女性が存在したんですね。
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