【北魏】詔勅を偽造した乙渾を処刑した献文帝(拓跋弘)ってどんな人?

わずか12歳で即位した北魏の第5代皇帝・献文帝(拓跋弘)には、朝廷で権力を握る乙渾を排除するという大仕事が待ち受けていました。

詔勅を偽造した乙渾を処刑した献文帝(拓跋弘)の生涯を紹介します。

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即位する

献文帝は454年生まれで、北魏の第4代皇帝・文成帝(拓跋濬)と李貴人(李氏)の間に第1皇子として誕生しました。

李氏は宋の済陰太守・李方叔の娘です。

450年、第2代皇帝・明元帝(拓跋嗣)の第5皇子・健の子どもである拓跋仁が寿春を侵攻した時に、李方叔を捕らえ、李氏一族の女性は後宮に入りました。
文成帝は李氏に一目惚れし、拓跋弘を授かった李氏は貴人に冊立されましたが、456年、拓跋弘が皇太子に冊立されたため、李貴人は処刑されてしまいました。

名前は拓跋弘といいます。
幼少期から困窮した農民を救うにはどうするべきかを考える、優しく思いやりのある皇子でした。

465年、文成帝が崩御し、拓跋弘は北魏の第5代皇帝・献文帝として即位しました。

12歳で即位した献文帝に朝廷を動かすことは難しく、丞相・乙渾が朝廷の中心人物となって実権を握りました。
乙渾は文成帝によって登用され、462年に太原王に封じられた後、車騎大将軍兼侍中となりました。

乙渾を処刑する

乙渾は偽の詔勅を作って、気に入らない官吏を次々と排除しました。
国事は全て乙渾の決済が必要となり、12歳の献文帝でさえも、乙渾の横暴を止めたいと思うようになりました。

おゆう
おゆう

でも、献文帝には乙渾の横暴を止める方法が分からず、手をこまねいていました。

何もできない献文帝を見た馮太后(文成帝の妻・文成文明皇后)の指導のもと、乙渾の処刑に踏み切りました。

馮太后と対立し、毒殺される

乙渾を処刑した後、馮太后が実権を握りました。

馮太后が実権を握っても、献文帝が幼いうちは問題ありませんでしたが、献文帝が成長するにつれて、献文帝と馮太后の間で対立が生じるようになりました。

おゆう
おゆう

469年、献文帝は第1皇子・拓跋宏を皇太子に冊立しました。

すると、471年、馮太后は拓跋宏に譲位するよう、献文帝に迫りました。

坊っちゃん
坊っちゃん

拓跋宏は467年生まれで、まだ4歳です。

拓跋宏に譲位するのはまだ早いと判断した献文帝が断ると、馮太后は献文帝を脅迫。
献文帝は仕方なく、拓跋宏に譲位し、太上皇帝となりました。

馮太后の要求を受け入れた一方で、献文帝は馮太后が重用していた官吏を殺すなどして復讐しました。

太上皇帝となっても、献文帝と馮太后の対立は収まらず、476年、献文帝は馮太后に毒を盛られ、22歳で崩御しました。

まとめ

詔勅を偽造した乙渾を処刑した献文帝(拓跋弘)の生涯を紹介しました。

第4代皇帝・文成帝のもとで侍中となり、詔勅を偽造して、対立する官吏を次々と排除して、献文帝のもとで権力を握った乙渾。
馮太后(文成帝の妻・文成文明皇后)の指導のもと、12歳の献文帝は乙渾を処刑しました。

ところが、成長するにつれて、献文帝と馮太后は対立し、馮太后に毒を盛られて22歳で崩御しました。

馮太后に毒を盛られなければ、献文帝はどのような政治を行ったのでしょうか。

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