北魏を建国した初代皇帝・道武帝(拓跋珪)の母・献明賀皇后は、46歳でこの世を去りました。
献明賀皇后の死因は病死だといわれていますが、道武帝のある行動が献明賀皇后の死期を早めたと考えられています。
母・献明賀皇后の死期を早めた道武帝の2つの行動を紹介します。
道武帝による賀蘭部の滅亡
献明賀皇后の夫・拓跋寔(たくばつしょく)の出身である鮮卑拓跋部は、315年に代国を建国したものの、前秦を中心に周辺諸国から攻撃を受けました。
匈奴、鮮卑、羯、羌、氐の五胡と漢民族が次々と国を建てた五胡十六時代。
代国の民だけでなく、多くの国々の民が命を守るために故郷を離れました。
前秦が代国を亡ぼすと、献明賀皇后は長男・拓跋珪(たくばつけい)、次男・拓跋觚(たくばつこ)を連れて、独孤部の劉庫仁のもとに身を寄せました。
つまり、劉庫仁と献明賀皇后、拓跋珪は親戚にあたります。
ところが、劉庫仁の子ども・劉顕が拓跋珪を殺そうと画策。
劉顕の企みを知った献明賀皇后は拓跋珪、拓跋觚を連れて、自らの出身である賀蘭部に身を寄せました。
賀蘭部に暮らす人々は、結婚して賀蘭部を離れた献明賀皇后を温かく迎え入れ、献明賀皇后にとって、賀蘭部は心の拠り所となりました。
ところが、拓跋珪が道武帝として即位すると、道武帝は賀蘭部を警戒するようになりました。
皇帝の母やその一族が権力を手にしたり、クーデターを起こしたりするなんてザラにありますからね。
賀蘭部を恐れた道武帝は後燕と協力して、賀蘭部に圧力をかけ、強制移住をさせて、賀蘭部を解散させました。
恩を仇で返すとは、まさにこのこと。
道武帝が権力を集中させるために賀蘭部の解散が必要だったとはいえ、賀蘭部出身の献明賀皇后にとって、道武帝の行為は受け入れがたいものでした。
道武帝が異父弟・拓跋觚を見捨てた
371年、夫・拓跋寔を亡くした献明賀皇后は拓跋寔の弟・拓跋翰(たくばつかん)と結婚し、拓跋觚を出産しました。
献明賀皇后は拓跋珪と拓跋觚を連れて、独孤部の劉庫仁のもとに身を寄せたと紹介しましたが、道武帝は(母・献明賀皇后の目線では)異父弟であり、(父・拓跋寔目線では)従兄弟でもある拓跋觚と一緒に育ちました。
390年、周辺諸国を警戒した道武帝は後燕に協力を求めようと、拓跋觚を使者として派遣しました。
北魏と後燕は同盟を結んでいたわけでも、親しかったわけでもありません。
拓跋觚は後燕の初代皇帝・成武帝(慕容垂)に捕らわれ、成武帝は「拓跋觚を返してほしければ、お金を支払い、また、名馬を贈るように」と道武帝に要求しました。
道武帝にとって、異父弟であり、従兄弟でもある拓跋觚。
近い将来、国史に自分の生い立ちを記載することになった時、拓跋觚との複雑な関係は、道武帝の地位をゆるがしてしまうかもしれません。
また、拓跋觚が自分の地位を狙っているのではないかと恐れた道武帝はお金を支払わず、また、名馬を贈らず、後燕との連絡を遮断しました。
拓跋觚を見捨てるという道武帝の行為は献明賀皇后にショックを与えました。
道武帝に救出する気がないと知った拓跋觚は、北魏に帰るべく、監視役を殺して後燕から脱出しようとしましたが、第2代皇帝・恵愍帝(慕容宝)に捕らわれ、都・中山(河北省定州市)に連れ戻されました。
周氏は道武帝と拓跋觚の義姉となったんです。
恵愍帝に弟が捕らわれているにも関わらず、弟を捕らえている恵愍帝の兄の妻を家族として迎える道武帝の無神経さは、献明賀皇后に更なるショックを与えました。
その年に、献明賀皇后は病死してしまいました。
まとめ
母・献明賀皇后の死期を早めた道武帝の2つの行動を紹介しました。
道武帝は献明賀皇后の出身であり、幼少期に自らもお世話になった賀蘭部を滅亡に追い込みました。
また、道武帝は献明賀皇后の産んだ異父弟・拓跋觚を見捨てたり、拓跋觚を捕らえた恵愍帝の兄の妻を家族として迎えたりして、献明賀皇后に大きなショックを与えました。
道武帝が献明賀皇后の気持ちを思いやっていれば、献明賀皇后はもう少し長生きすることができたのかもしれませんね。
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