【北魏】孝文帝の第2皇子・宣武帝(元恪)が即位した理由

一般的には、第1皇子が皇太子に、そして、後継ぎとなって即位しますが、北魏の第7代皇帝・宣武帝は違いました。

北魏の第6代皇帝・孝文帝の第2皇子・宣武帝(元恪)が即位した理由を、宣武帝の生涯と共に紹介します。

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宣武帝(元恪)ってどんな人?

宣武帝は483年生まれで、北魏の第6代皇帝・孝文帝(元宏)と高貴人の間に、第2皇子として誕生しました。
名前は元恪といいます。

497年に皇太子となり、499年4月に孝文帝が崩御すると、元恪は第7代皇帝・宣武帝として即位しました。

おゆう
おゆう

即位した当時、宣武帝は17歳。

父方の叔父・元禧や元詳の他、遠い親戚にあたる元澄、尚書令・王粛、吏部尚書・宋弁が宣武帝をサポートしました。

501年、19歳を迎えた宣武帝は自ら判断して指示するようになりました。

すけさん
すけさん

成長した宣武帝を微笑ましく見守っていた元禧。

ところが、宣武帝は元禧の機嫌を損ねてしまいます。

坊っちゃん
坊っちゃん

元禧ではなく、母方の叔父・高肇に政務を任せるようになったんです。

これまで宣武帝を献身的にサポートしてきた元禧は不満を抱き、高肇を排除しようとクーデターを企てました。

元禧に代わって重用された高肇は、元禧が嫉妬して、クーデターを企てるのではないかと警戒していました。
高肇は元禧がクーデターを企てていることを察知し、宣武帝に上奏。

高肇の上奏、指示に従って、宣武帝は元禧を処刑しました。

おゆう
おゆう

元禧を処刑すると決断を下したのは宣武帝ですが、宣武帝を操っていたのは高肇です。

元禧が処刑されたことで、宣武帝の父方の親戚は高肇を恐れるようになりました。

508年、高肇によって排除されるのではないかと考えた宣武帝の叔父・元愉と元勰はクーデターを起こしました。
高肇はクーデターを鎮圧し、元愉、元勰を含むクーデターに関わった者を処刑しました。

高肇は朝廷で権力を握っていた大臣を次々と排除。
高肇が宣武帝を操っていることを皆知っていたため、高肇は憎まれるようになりました。

515年1月、宣武帝は33歳で崩御しました。

北魏の第8代皇帝・孝明帝が即位すると、高肇は孝明帝に仕えることになりましたが、高肇が孝明帝に仕えた期間はわずか1ヶ月。
権力を握った高肇を疎んだ者達によって殺されてしまいました。

孝文帝の第2皇子・宣武帝(元恪)が即位した理由

紹介したように、宣武帝は孝文帝の第2皇子です。

おゆう
おゆう

一般的には、第1皇子が皇太子に冊立され、そして、皇帝に即位します。

では、何故、第2皇子である宣武帝が皇太子に冊立され、皇帝に即位することになったのでしょうか。

宣武帝の兄である第1皇子・元恂は、宣武帝と同じ483年に生まれました。
生母である林貴人は子貴母死制によって亡くなり、生母を失った元恂は北魏の第4代皇帝・文成帝(拓跋濬)の妻・馮太后に育てられました。

元恂にとって、馮太后は曽祖母(ひいおばあちゃん)にあたります。

493年、孝文帝が平城(山西省大同市)から洛陽に遷都し、南朝・斉の討伐に乗り出すと、孝文帝の後継ぎである元恂は洛陽の留守を任されました。

坊っちゃん
坊っちゃん

孝文帝が元恂に都の留守を任せるということは、孝文帝が元恂を信頼し、また、元恂に期待していることの証。

ところが、元恂は洛陽の留守を任されたことに不満を抱いていました。

洛陽は平城から南に位置し、700kmも離れています。

おゆう
おゆう

700kmも離れているといっても、中国の都市では想像しにくいですよね。

例えば、北海道室蘭市は東京から700km離れています。
北海道と東京では気温が全然違いますよね。

洛陽と平城の気温も全然違って、洛陽は平城に比べて暑く、平城で育った元恂は洛陽での生活にストレスをためてしまいました。

また、孝文帝が胡族の文化や風習を禁止し、漢民族との融合(漢化)を進めているにも関わらず、元恂は胡族の衣服を着続けました。

元恂が孝文帝の怒りを買ってしまうと思った太子中庶子・高道悦は、元恂に生活習慣を改めるようにアドバイスしました。
ところが、元恂は高道悦に感謝したり、従ったりするどころか、高道悦を殺してしまいました。

すけさん
すけさん

元恂が高道悦を殺したこと、また、命令に背いていたことを知った孝文帝は、斉討伐を中断し、洛陽に引き返しました。

孝文帝は元恂を杖叩きの刑に処し、皇太子を廃して、元恂を改心させようとしました。

でも、元恂の反感は募るばかり。
やがて、元恂の反感はクーデターを企てるまでに至りました。

元恂を監視していた孝文帝は、元恂がクーデターを企てていることを知り、元禧と黄門郎・邢巒(けいらん)に、元恂を処刑するよう命じ、497年、元恂は15歳で亡くなりました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

つまり、宣武帝が皇太子に冊立されたのは、孝文帝の怒りを買った皇太子・元恂が廃されたからだったんですね。

まとめ

北魏の第6代皇帝・孝文帝の第2皇子・宣武帝(元恪)が即位した理由を、宣武帝の生涯と共に紹介します。

宣武帝の兄・元恂は孝文帝が行っていた漢化政策に従わず、孝文帝の怒りを買って廃されました。
第1皇子が廃され、第2皇子だった宣武帝は繰り上がって後継者となりました。

父方と母方の両方の叔父に翻弄された宣武帝。
兄の行く末を見ていた宣武帝は従わざるを得なかったのかもしれませんね。

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