北魏には、3人の皇帝に仕えた崔宏、崔浩親子がいましたが、崔浩は編纂した国史が原因で処刑(国史の獄)されてしまいました。
国史の獄が起きた背景と後世に与えた影響を紹介します。
国史の獄とは?
国史の獄とは、450年に、北魏の第3代皇帝・太武帝(拓跋燾)が命じた国史の編纂に関わった文官が処刑された事件を指します。
国史の獄が起きた背景
国史の獄が起きた背景は2つあります。
鄧淵の獄に倣った
国史の獄が起きた450年を遡ること43年。
407年にも、国史の獄と同じように、国史の編纂を命じられた文官が処刑される事件が起きていました。
国史の編纂を命じられたのは鄧淵。
鄧淵は文書の才能を評価され、北魏の初代皇帝・道武帝(拓跋珪)のもとで著作郎となりました。
教養があるうえに、真面目に仕事をする鄧淵に、道武帝は国史の編纂を命じました。
ところが、国史の編纂を命じた後、道武帝はお酒や道士が調合した薬に溺れ、また、狩りに熱中し、政務を放棄するようになりました。
当初、国史の編纂は道武帝の管轄下で行われましたが、道武帝の精神状態が不安定になると、道武帝は国史の編纂に関わらなくなりました。
道武帝の精神状態が不安定になっても、道武帝が国史の編纂に関わらなくなっても、鄧淵は国史を編纂しなければいけません。
鄧淵は国史を一生懸命編纂しました。
ところが、鄧淵の編纂した国史を見た道武帝は激怒し、407年、鄧淵は処刑されてしまいました。
鄧淵の処刑された理由は判っていません。
崔浩が書いてはいけないことを書いてしまった
鄧淵が処刑されてから22年が経った429年、太武帝は史館を設置して、崔浩に国史の編纂を命じました。
にも関わらず、崔浩が編纂を終えたのは450年。
崔浩が20年もかけて国史を編纂したことで、嘘を書いたのではないか、忖度したのではないかと、太武帝は崔浩に疑いの目を向けました。
太武帝が国史に目を通すと、北魏皇室の婚姻や部族解散について書かれていました。
北魏皇室では叔父や甥、叔母や姪と結婚したり、従兄妹と結婚したりするのはよくあることでした。
また、北魏には、産んだ皇子が皇太子に冊立されると、その生母が殺される「子貴母死」という制度がありました。
真実を書くように命じられていた崔浩。
ところが、崔浩の書いた真実は、自分に権力を集中させたい太武帝にとって不都合なものばかり。
450年、崔浩をはじめ、国史の編纂に関わった文官は処刑されてしまいました。
真実を書くようにという命令に忠実に従った崔浩は、処刑が決まった時でさえも、「何故、処刑されなければいけないのか」、「何故、太武帝の怒りを買ったのか」と考えたかもしれませんね。
国史の獄が後世に与えた影響
国史の編纂に関わった鄧淵、崔浩が処刑されたことで、以降、国史の編纂を命じられた文官は、皇帝の言うままに真実を書いてもいいものかどうかと忖度するようになりました。
国史の編纂に年数がかかり、また、年数がかかっても、その内容は薄っぺらく、北魏の史学は発展しませんでした。
まとめ
国史の獄が起きた背景と後世に与えた影響を紹介しました。
崔浩の編纂した国史の内容に怒った太武帝は、鄧淵の獄に倣って、崔浩をはじめ、国史編纂に携わった文官を処刑しました。
鄧淵の獄、国史の獄が起きた後に国史の編纂を命じられた文官は、皇帝の言うままに真実を書いてもいいものかどうかと忖度するようになり、結果として、北魏の史学は発展しませんでした。
当時から、自分の身、立場を守るために、部下は上司に忖度しなければいけなかったんですね。
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