【梁】晩年を侯景に狂わされた武帝(蕭衍)ってどんな人?

斉を滅ぼし、502年に梁を建国して初代皇帝・武帝として即位した蕭衍。

蕭衍の在位期間は47年に及びますが、晩年は侯景に狂わされた人生でした。

武帝(蕭衍)の生涯を紹介します。

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梁を建国して即位する

武帝は464年生まれで、斉の初代皇帝・高帝(蕭道成)の親戚である蕭順之と宋で交趾郡(ベトナムのハノイ市)太守を務めた張穆之の娘・張尚柔の間に3男として誕生しました。

名前は蕭衍といいます。

蕭衍には蕭懿、蕭敷の2人の兄がいて、蕭衍は2人をとても慕っていましたが、497年に蕭敷は37歳の若さで亡くなってしまいました。
蕭敷を亡くしてから、蕭衍は蕭懿を更に慕うようになりました。

おゆう
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ところが、500年、蕭懿は斉の第6代皇帝・東昏侯(蕭宝巻)に殺されてしまいました。

お嬢ちゃん
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蕭懿は東昏侯に献身的に仕えていましたが、武功を上げた蕭懿を妬んだ茹法珍が「蕭懿がクーデターを企んでいる」と嘘の上奏をし、東昏侯は信じてしまったんです。

501年、大事な兄を殺された蕭衍は挙兵して、東昏侯の弟・蕭宝融を擁立して第7代皇帝・和帝として即位させ、東昏侯を捕らえて殺しました。

坊っちゃん
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和帝が即位した時、和帝はわずか13歳。

蕭衍は自ら即位する準備を整えると、502年、和帝から禅譲を受け、梁を建国し、初代皇帝・武帝として即位しました。

即位した武帝は、貴族出身の沈約や范雲を宰相に任命し、自ら倹約生活を送りました。
また、官制を整備したり、教育機関を設置したりと、さまざまな政策を打ち出しました。

仏教に没頭する

即位する前、武帝は斉の第2代皇帝・武帝(蕭賾)の第2皇子・蕭子良の西邸に出入りしていました。
蕭子良は仏教を信仰していたため、蕭子良と接するうちに、武帝は仏教を信仰するようになりました。

即位後は仏教に対する関心、信仰心が更に高まり、4回にわたって捨身を行いました。

おゆう
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梁と交流のあった東南アジア諸国や百済は武帝を菩薩のように崇めていました。
国外においても、武帝は熱心な仏教徒として有名だったんですね。

侯景に幽閉される

548年、東魏から侯景が帰順を求めてやってきました。
侯景は東魏から河南の地の統治を任されていたため、武帝は東魏と戦わずして河南の地を得られるならと、侯景を梁に迎え入れました。

ところが、侯景に東魏軍と戦わせたところ、軍を壊滅させるほどに大敗し、朝廷内で侯景の価値を見直すこととなりました。
更に、この頃、東魏が梁と和平を結びたいと申し出ました。

東魏との戦いに疲れていたため、武帝は東魏と和平を結ぶことにしました。

おゆう
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東魏と梁の板挟みにあい、行き場をなくした侯景はクーデターを起こしました。

侯景は梁の皇族・蕭正徳の協力を得て、都・建康を包囲し、549年3月10日、建康城を陥落しました。
文徳殿にいた武帝は建康城が陥落した知らせを聞くと、「まだ戦わなければいけない」と言いましたが、臣下が勝敗が既に決まっていると答えると、敗北を受け入れました。

侯景は武帝のもとに使者を送り、書簡を渡しました。

その書簡には、
・武帝に裏切られたから挙兵したこと
・兵を率いて入城し、驚かせて申し訳なく思っていること
が書かれていました。

武帝が侯景を呼び出すと、侯景は500人の兵を率いて、武帝のもとへ足を運びました。

兵を率いている侯景に会っても、武帝は顔色を変えることなく、「兵を率いて疲れただろう」と侯景を労いました。
まさか武帝から労われると思っていなかった侯景は、武帝の顔を見ることができず、冷や汗を流しました。

また、武帝は「妻子は東魏にいるのか」と気遣いました。
侯景は声が出ず、返事をできませんでした。

侯景が東魏から梁に帰順した時、侯景の妻子は東魏で処刑されていました。

侯景が率いていた兵が、侯景の代わりにそう答えました。

更に、武帝は「挙兵した時、兵はどれぐらいだったのか」と尋ねました。

おゆう
おゆう

侯景はようやく我に返り、「1000人でした」と答えました。

武帝が「建康城を包囲した時、兵はどれぐらいだったのか」と尋ねると、「10万人です」と答えました。

武帝が「今、兵はどれぐらいなのか」と尋ねると、「梁内の兵全てです」と答えました。

坊っちゃん
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強気な侯景を見た武帝は敗北を改めて痛感しました。

武帝との謁見を済ませた後、侯景は武帝に仕えていた侍衛を退けて、城内の金品を奪いました。
そして、自ら丞相・大都督中外諸軍・録尚書事と称して、武帝の皇子に軍の解散を命令しました。

中には、軍を解散することに抵抗する皇子もいましたが、建康城を守るべく応援に駆けつけるような戦意を抱いていなかったため、侯景の命令に従って軍を解散しました。

こうして、武帝は侯景の命令に従わざるを得ない立場に置かれました。

おゆう
おゆう

侯景は侯景で、武帝が力を蓄えて、いつか反撃してくるのではないかと恐れていました。

侯景は武帝を幽閉し、食事の量をグッと減らしました。

病を患い、死期を悟った武帝は「最期に蜜を舐めたい」と言いましたが、蜜を与えられることはなく86歳で崩御しました。

まとめ

武帝(蕭衍)の生涯を紹介しました。

弟・蕭懿を斉の第6代皇帝・東昏侯(蕭宝巻)に殺されたことをきっかけに、斉を滅ぼして梁を建国した武帝。
武帝の在位期間は47年に及びましたが、東魏から帰順を求めた侯景の策略にはまり、晩年は幽閉生活を送りました。

武帝は中国歴代皇帝の中で上から7番目に在位年数が長い皇帝です。
最期は侯景に振り回されてしまいましたが、皇帝としての武帝の人生は充実したものだったかもしれませんね。

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