【梁】12歳で2度即位した敬帝(蕭方智)の最期

侯景の乱により、国力を失った梁。
皇子間で争いが起きるなど、混乱が続く中、12歳で即位したのが梁の第5代皇帝・敬帝(蕭方智)です。

敬帝とはどのような人物なのでしょうか。

敬帝(蕭方智)の生涯を紹介します。

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江州刺史となる

敬帝は543年生まれで、梁の第4代皇帝・元帝(蕭繹)と側室・夏貴妃の間に、第9皇子として誕生しました。

おゆう
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名前は蕭方智といいます。

549年、興梁侯に封じられた後、552年11月に、蕭繹が梁の第4代皇帝・元帝として即位すると、蕭方智は晋安郡王に封じられました。
553年9月には、平南将軍・江州(江西省九江市)刺史となりました。

即位するも皇太子に格下げとなる

梁の初代皇帝・武帝(蕭衍)を死に追い込んだ侯景の乱は、552年3月に終結していましたが、梁を大混乱に導き、北朝が南へ勢力を伸ばす絶好の機会となっていました。

おゆう
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554年11月、北朝・西魏が南征を開始し、元帝が本拠地としていた江陵を陥落。

元帝は殺され、元帝に仕えていた王僧弁と陳覇先によって、蕭方智は急遽擁立されました。

555年2月、蕭方智は都・建康で梁の第5代皇帝・敬帝として即位しました。

即位した当時、敬帝は12歳でしたが、元帝に仕えていた王僧弁と陳覇先が擁立したことから、王僧弁と陳覇先は敬帝のサポートをするつもりだったのではないかと考えられます。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

ところが、北朝・北斉が梁に水を差しました。

北斉の初代皇帝・文宣帝(高洋)は547年から捕虜としていた武帝の甥・蕭淵明の梁の帰国を突然許し、敬帝を廃して、蕭淵明を擁立するよう、梁に要請したんです。

おゆう
おゆう

敬帝を擁立した王僧弁と陳覇先、蕭淵明を擁立した北斉は対立。

既に国力を失っていた梁は北斉に敗北し、王僧弁は北斉と共に蕭淵明を擁立しました。

敬帝は即位してわずか5ヶ月で退位し、蕭淵明が梁の第6代皇帝・閔帝として即位。
蕭方智は皇太子に格下げとなりました。

復位する

王僧弁と共に蕭方智を擁立した陳覇先は、王僧弁が北斉の言いなりになったことに怒り、王僧弁を討ちました。
そして、蕭方智を再び擁立し、北斉に強固な態度を示して、閔帝を廃して敬帝を復位させました。

おゆう
おゆう

でも、復位しても、敬帝が12歳であることに変わりはありません。

王僧弁を討った陳覇先が梁の実権を握り、朝廷を運営しました。
この体制に不満を抱いた臣下は北斉と共に陳覇先に反乱を起こしましたが、すぐに鎮圧されました。

すけさん
すけさん

国内の揉め事に他国の軍事力を借りなければいけなかったことから、梁の軍事力が低下していたことがよく分かりますね。

陳覇先に禅譲し、15歳で殺される

557年10月、敬帝は陳覇先に禅譲し、陳覇先は陳を建国して、初代皇帝・武帝として即位。

おゆう
おゆう

502年の建国から55年が経ち、梁は滅亡しました。

蕭方智は江陰王に封じられましたが、558年4月、武帝が派遣した中書舎人・劉師知に斬り殺され、15歳で亡くなりました。

まとめ

敬帝(蕭方智)の生涯を紹介しました。

555年に12歳で即位した敬帝は、即位して5ヶ月後に退位し、その2ヶ月後に復位しました。

王僧弁や陳覇先、そして、北斉の利害関係に巻き込まれ、慌ただしい人生を送ることになった敬帝。
自分の代で梁が滅亡すると知った時、どのような気持ちだったのでしょうか。

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