【梁】簡文帝(蕭綱)のもとで確立した宮体詩とは?

侯景の乱が勃発した後に即位した梁の第代皇帝・簡文帝(蕭綱)。

簡文帝ではなく、侯景が実権を握りましたが、簡文帝のもとで「宮体詩」と呼ばれる文体が確立し、文学は南朝最盛期を迎えました。

簡文帝(蕭綱)の生涯、簡文帝のもとで確立した宮体詩を紹介します。

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簡文帝ってどんな人?

簡文帝は503年生まれで、梁の初代皇帝・武帝(蕭衍)と側室・丁貴嬪の間に、第3皇子として誕生しました。
名前は蕭綱といいます。

揚州刺史となる

506年、晋安王に封じられた後、509年には、雲麾将軍兼領石頭戍(江蘇省南京市)事に任命されました。

510年には、宣毅将軍・南兗州(江蘇省揚州市)刺史に任命され、514年、南蛮校尉・荊州(湖北省荊州市)刺史となり、荊州に赴任しました。

518年、都・建康に呼び戻され、再び領石頭戍事に任命された後、侍中を加授されました。

520年、益州(四川省成都市)刺史に任命されましたが、益州に赴任しないまま、雲麾将軍・南徐州(江蘇省揚州市)刺史に任命され、523年には、平西将軍・寧蛮校尉・雍州(陝西省西安市)刺史に任命されました。

526年、母・丁貴嬪が亡くなりました。
辞職して故郷に帰り喪に服すのが一般的ですが、蕭綱は官職を解いただけで、在職中に与えられていた職務を遂行しました。

530年、建康に戻り、驃騎将軍・揚州(江蘇省揚州市)刺史となりました。

皇太子に冊立される

531年、皇太子だった兄・蕭統、蕭綜が続けて亡くなり、蕭綱は皇太子に冊立されました。

548年、侯景の乱が勃発し、侯景が建康を陥落しました。
武帝は幽閉され、蕭綱は侯景に監視されるようになりました。

即位する

549年5月、武帝が崩御すると、蕭綱は梁の第2代皇帝・簡文帝として即位しました。

でも、実権を握っているのは侯景で、朝廷をスムーズに動かすべく、簡文帝は侯景を最高職である相国に任命するよう強要されました。
また、兄弟間で対立が起こり、簡文帝は侯景、兄弟と上手く付き合わなければいけませんでした。

侯景に殺される

簡文帝と侯景は同い年で、侯景にとって、46歳で即位した簡文帝は意のままに動かしづらく、次第に邪魔な存在となりました。

おゆう
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551年8月、侯景は刃向かう武帝の皇子の征討に向かいましたが、ことごとく敗北。

危機感を募らせた侯景は、権力をより強固なものとするべく、簡文帝を廃し、脅威となる簡文帝の皇子を殺し、武帝のひ孫・蕭棟を擁立して即位させました。
10月、簡文帝は侯景の派遣した使者によって殺され、48歳で崩御しました。

簡文帝のもとで確立した宮体詩とは?

武帝の8人の皇子の中で、第1皇子・蕭統(昭明太子)は文章家としても有名ですが、蕭統と同じように、簡文帝も文才に優れていました。

簡文帝は幼い頃から学問に励み、6歳で武帝が驚くような美しい文章を書きました。
九流百氏の書を一度読んだだけで内容を理解し、手に筆を取れば、優れた叙情詩と叙事詩をつくりました。

おゆう
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当時文士として活躍していた庾肩吾(ゆけんご)、徐摛(じょち)、陸杲(りくこう)、劉遵、劉孝儀、劉孝威を招いて、詩を詠む会を開きました。

531年、皇太子に冊立されると、東宮内に文徳省を設置して、学士を置きました。
学士として迎えられたのは、庾肩吾の子ども・庾信、徐摛の子ども・徐陵の他、張長公、傅弘、鮑至などの一流の詩人、文章家でした。

そして、文徳省の学士を中心として、「宮体詩」と呼ばれる文体が確立。

宮体とは「東宮の詩体」という意味です。

斉の沈約や謝朓が四声を用いて確立した「永明体」よりも更に音韻を重視し、美しい形式にこだわりました。

420年から589年まで存続した宋、斉、梁、陳の4王朝の南朝170年間において、文学は簡文帝のもとで全盛期を迎えました。

まとめ

簡文帝(蕭綱)の生涯、簡文帝のもとで確立した宮体詩を紹介しました。

侯景が建康を陥落した後、簡文帝は侯景に監視されるようになり、また、侯景に実権を握られ、廃された後、最期は侯景に殺されてしまいました。
侯景の乱が勃発し、朝廷内は混乱していましたが、文才に優れていた簡文帝のもとには文章家が集まり、「宮体詩」と呼ばれる文体が確立されました。

華やかな南朝文化の確立に、簡文帝は一役買ったのかもしれませんね。

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