北朝、南朝に王朝が存在し、また、王朝が次々と建国された激動の南北朝時代。
多くの官吏は俘虜となり、不当に働かされましたが、顔之推は各王朝で文官として活躍しました。
激動の南北朝時代を生き抜いた顔之推とは、どのような人物なのでしょうか。
顔之推の生涯と顔氏家訓について紹介します。
顔之推ってどんな人?
顔之推は531年生まれで、琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市)の出身。
幼い頃から儒教の経典である「周礼」や史書である「春秋左氏伝」を読み、儒学をはじめとした学識をもっていました。
梁の第4代皇帝・元帝(蕭繹)のもとで、左常侍・鎮西墨曹参軍を務めた後、郢州(湖北省武漢市)で掌管記を務めました。
552年、乱が平定した後、江陵(湖北省荊州市)に赴任し、散騎侍郎となりました。
554年、西魏が江陵を攻めて陥落すると、顔之推は再び捕らえられて、弘農(河南省三門峡市)に移りました。
北斉の初代皇帝・文宣帝(高洋)のもとで奉朝請として仕えました。
その後、中書舎人や黄門侍郎を歴任しましたが、577年、北周が北斉を滅ぼすと、北周で御史上士となりました。
581年、隋が北周を滅ぼすと、初代皇帝・文帝(楊堅)の第1皇子である皇太子・楊勇のもとで文学となりましたが、間もなく病を患って亡くなりました。
顔氏家訓ってどんな作品?
中国では「家訓といえば顔氏家訓」と答えるほど有名な顔氏家訓。
顔氏家訓は顔之推が子孫に受け継ぎたいことを全7巻にわたって記した作品です。
侯景軍や西魏軍に捕らえられ、命を度々危険にさらされた顔之推は、自らの経験から得た知識を子孫に受け継ぐことこそ、祖先の大事な役割だと考えました。
梁、北周、北斉、隋の4王朝に仕えた顔之推。
顔之推に教養がなければ、4王朝に仕えることはできなかったかもしれません。
顔之推は学問の重要性や子どもの教育方法について、顔氏家訓に記しました。
また、再婚する時の注意点など、現代を生きる私達が興味を抱くようなことも記しました。
まとめ
侯景軍や西魏軍に捕らえられながらも、4王朝に仕えた顔之推。
激動の時代を生き抜いた顔之推は、自らの経験から得た知識を子孫に受け継ぐべく、顔氏家訓を記しました。
日本でも、現代語訳された顔氏家訓が出版されています。
是非、機会があれば読んでみてくださいね。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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