【梁】顔之推ってどんな人?顔氏家訓ってどんな作品?

北朝、南朝に王朝が存在し、また、王朝が次々と建国された激動の南北朝時代。
多くの官吏は俘虜となり、不当に働かされましたが、顔之推は各王朝で文官として活躍しました。

激動の南北朝時代を生き抜いた顔之推とは、どのような人物なのでしょうか。

顔之推の生涯と顔氏家訓について紹介します。

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顔之推ってどんな人?

顔之推は531年生まれで、琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市)の出身。

父は梁で鎮西府諮議参軍を務めた顔協です。

幼い頃から儒教の経典である「周礼」や史書である「春秋左氏伝」を読み、儒学をはじめとした学識をもっていました。
梁の第4代皇帝・元帝(蕭繹)のもとで、左常侍・鎮西墨曹参軍を務めた後、郢州(湖北省武漢市)で掌管記を務めました。

548年、侯景の乱が勃発し、郢州が陥落すると、顔之推は捕らえられて、都・建康に送還されました。

552年、乱が平定した後、江陵(湖北省荊州市)に赴任し、散騎侍郎となりました。

554年、西魏が江陵を攻めて陥落すると、顔之推は再び捕らえられて、弘農(河南省三門峡市)に移りました。

その後、黄河が氾濫し、国が混乱したことに乗じて、北斉に亡命しました。

顔之推は黄河に小さな船を浮かべて、陝(河南省三門峡市)から河陰(河南省洛陽市)までの2800kmを一晩で移動しました。

北斉の初代皇帝・文宣帝(高洋)のもとで奉朝請として仕えました。
その後、中書舎人や黄門侍郎を歴任しましたが、577年、北周が北斉を滅ぼすと、北周で御史上士となりました。

581年、隋が北周を滅ぼすと、初代皇帝・文帝(楊堅)の第1皇子である皇太子・楊勇のもとで文学となりましたが、間もなく病を患って亡くなりました。

顔氏家訓ってどんな作品?

中国では「家訓といえば顔氏家訓」と答えるほど有名な顔氏家訓。

おゆう
おゆう

顔氏家訓は顔之推が子孫に受け継ぎたいことを全7巻にわたって記した作品です。

侯景軍や西魏軍に捕らえられ、命を度々危険にさらされた顔之推は、自らの経験から得た知識を子孫に受け継ぐことこそ、祖先の大事な役割だと考えました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

梁、北周、北斉、隋の4王朝に仕えた顔之推。

顔之推に教養がなければ、4王朝に仕えることはできなかったかもしれません。

顔之推は学問の重要性や子どもの教育方法について、顔氏家訓に記しました。
また、再婚する時の注意点など、現代を生きる私達が興味を抱くようなことも記しました。

まとめ

侯景軍や西魏軍に捕らえられながらも、4王朝に仕えた顔之推。
激動の時代を生き抜いた顔之推は、自らの経験から得た知識を子孫に受け継ぐべく、顔氏家訓を記しました。

日本でも、現代語訳された顔氏家訓が出版されています。

是非、機会があれば読んでみてくださいね。

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